エンゼルス・大谷翔平【写真:Getty Images】

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本塁打よりも衝撃…左打席からの強烈サードライナー

 エンゼルスの大谷翔平投手は、2012年ドラフト会議で日本ハムから1位指名を受け、プロの世界に飛び込んだ。その直前、高卒すぐにメジャーでプレーしたい意向を明らかにしていたこともあり、日本ハムの単独指名だった。大谷のどこを評価し、なぜ指名できたのか。そして、メジャーで二刀流を成し遂げる“10年後の姿”は想定通りだったのか(MLBはABEMAで毎日生中継)。当時、ゼネラルマネジャー(GM)としてチーム編成の責任者だった山田正雄氏(現スカウト顧問)に聞いた。

「外れですよ。大外れ。全く予想外だったねえ」

 山田氏に「メジャーで二刀流を全うして、本塁打を打ちまくるような活躍まで予想していたのか」と問うと、苦笑いが返ってきた。「(高橋)由伸のようになるかと思って獲得しましたからね。どちらかと言えば中距離打者で、ホームランバッターではないと思っていました」。思い描いていたのは、長年にわたって打率3割、20本塁打を残し続ける姿だ。「あんなに打球は飛ばないと思っていた。それが40、50本打とうかというところまでいくんだから、分からないものですよ」と、“未来予想図”を超えた活躍には驚きしかないという。

 GMだった山田氏が大谷のプレーを初めて見たのは、花巻東高3年春の選抜出場時だ。1回戦にいきなり、大阪桐蔭との対戦。そこで目を奪われたのは、藤浪晋太郎(現阪神)から右中間に放った本塁打ではない。記録には1つのアウトとしてしか残らない、三塁へのライナーだった。

「本塁打は『まあ打つだろうな』という感じ。びっくりしたのはサードライナーですよ。少し外のボールを流すというのではなく、しっかり“叩いた”んです。トップの位置から、本当にスッとバットが出てくる。無駄な動きが一切ないから、ボールを手元まで引き付けて打てるんだけど……。一目見て、これはすごいなと」

 一方で、投げる方はなかなか確信を持てなかった。大谷は2年夏の股関節痛から回復が遅れ、この試合では8回2/3を投げて被安打7、9失点(自責5)。試合も2-9で敗れ、1回戦で姿を消した。11三振を奪う裏で、四死球も11個。「投手としてはスライダーの変化がすごかったけど、簡単に決まるようになるとは思っていなかった。ストレートも力はあるけど、コントロールが良くなるのかなという感じ」。勝負所のボールが甘くなるのが、どうしても気になった。

 そして大谷は、その夏の甲子園には出ることもできなかった。残る試合は、甲子園終了後に韓国・ソウルで行われた第25回AAA世界野球選手権大会だった。

韓国まで追いかけて確信「ナンバーワンは大谷かな」

 日本代表となった大谷の最終チェックのため、山田氏は韓国へ飛んだ。「(他球団は)どこも見に来ないだろうと思ってね。ずっと見ていれば、ある程度は見えるだろうと考えた」。ところが、山田氏が唯一見られなかったカナダとの第1ラウンド初戦に、大谷は「4番・投手」で先発。その後はずっと打者としての起用が続いた。

「代表監督だった小倉(全由=日大三高監督)さんに聞いても『もう投げないよ』って言われてね。困ったなと思っていたんだけど、最後に奇跡が起きたんだよ」。山田氏が投手・大谷を目にできたのは、最終戦となった韓国との5位決定戦だ。投手不足で先発した大谷は7回2失点で負け投手となったものの、12奪三振。直球もスライダーもしっかり決める姿を見て、結論を出した。「藤浪もいたんだけど、この年のナンバーワンは大谷かな、とね」。

 ただ、高卒すぐのメジャー入りを目指していた大谷はドラフト当日、指名を受けても「意思は変わらない」と口にし、日本ハム入りの可能性も「ゼロです」と言い切った。ここから約1か月半に及ぶ交渉の過程で伝えたのが、投打二刀流への挑戦だ。そんなことが本当にできるのか、誰も分からなかった。山田氏には別の思いもあったという。

「何年か両方やって、いずれは打者一本になっていくんじゃないか。そう思っていたのが本当のところです。だから、二刀流をやり始めた頃、よく解説者に『野手の方がいい』って言われたけど、それもまともな意見だと思っていましたよ。(当時は)投手と打者、両方が良くなった上に、えらいバッターになるなんて言う人はいなかったわけでしょ」。想定を超える成長を可能にしたのは、本人の強い意思だった。

 唯一無二の二刀流で、なぜメジャーで成功できるまでになったのか。山田氏は「本人の中に違う目線というか『絶対できる』という自信があったような気がしますね。何が足りないかを把握して、常に努力していたという印象です」と振り返る。多くの選手をプロに導いてきた目にも、レベルの違いを感じる出来事があった。

「投手で完投した後に『ナイスピッチング』と声を掛けても、当たり前のような顔をしているんです。普通は少し興奮したりするところでも『当たり前ですよ』というか。この子の感覚は少し違うんだなと思いました。自分の中に大きな目標があったんじゃないでしょうか。上沢(直之)や高梨(裕稔)が10勝するなら僕は20勝てるとか、中田(翔)が30本打つなら45本というような。もちろん、口には一切出しませんけど」

 さらに「栗山(英樹)監督も、本当に大変だったと思いますよ。栗山さんでなければ二刀流は難しかった」と山田氏は言う。二刀流を提案した日本ハムにも、成功へのノウハウがあったわけではない。どのくらいのトレーニングをこなせば投手と打者を両立できるのか、当時の首脳陣はシーズン中にも休養日を設けるなどの試行錯誤を続けた。「投手をやりながらバッターもやって、ウエートトレーニングはそんなにできないと思っていた」という山田氏は3年目、コーチから大谷が熱心にトレーニングに取り組んでいると聞いて驚いた。それも重いものを挙げるハードなトレーニングを積んでいると。大谷は4年目の2016年、打者として打率.322、22本塁打。投手としても10勝、防御率1.86を記録し、チームを日本一に導く。

二刀流を成功させた大谷の人間性「チームの勝利のために頑張れる」

 そしてもう一つ、二刀流を成功させるために必要なことがあった。みんなに好かれる人間性だ。

「あんまり『俺が、俺が』という人間ではないよね。チームの勝利のために頑張れる。人に好かれるだろうな、周りがみんな認めるだろうな、というのはありましたよ」

 大谷が二刀流に成功すれば、選手1人の出番が失われることにつながる。これは入団交渉で、大谷より両親が心配していたという。提案した側の山田氏も「(両親は)『他の選手にいろいろ言われるんじゃないか』と言っていたね。誰もやってないことをやってほしいと言ったんだから、『うちの息子は大丈夫だろうか』と思うのも当然でしょう」と振り返る。思わず「プロ野球の世界、他人のことをそこまで考える余裕のある選手はいませんよ」と伝えたほどだ。実際には心配無用だった。大谷は先輩たちに物怖じせずに接した。ちょっかいを出す姿が「クソガキ」と呼ばれてかわいがられ、誰よりも努力する姿と驚異的なプレーで雑音を封じた。

 日本ハムは大谷を指名する前年のドラフトで東海大の菅野智之投手(現巨人)を1位指名したものの、入団には至らなかった。2年連続で1位指名枠を棒に振れば、チーム編成が揺らぎかねない。メジャー志望を公言する大谷の指名にはリスクもあった。

「2回目の交渉くらいから、正直こちらも焦っていました。もちろん、アメリカでやりたいと決意したと言っていたわけだから、来ないという覚悟もありました。でも、リスクだとは全然考えなかったね。やっぱりチームの軸になる選手を取りたいんですよ。1位では」

 この年のドラフト候補ではナンバーワンで、チームの軸になれるという見立ては正しかった。そして、予想以上のスケールを見せつけていった。

 今でも山田氏がはっきり覚えている場面がある。2013年1月、千葉・鎌ケ谷の球団施設は自主トレを開始した大谷フィーバーに沸いた。「面白いもので、軽くバットを振っただけでやっぱりスイングの速さは目立つんです。するとコーチも『これは絶対打者です。こんなの見たことがない』って言うの。でも、投げてみれば今度は『これは絶対投手です』と。今になってみれば、どちらも正しかったということ」。

 大谷を二刀流として花開かせたことで、球界にも変化があったという。「指導者の側が、やってみないとわからないと思うようになりました。両方できるならやらせてみよう、という空気になった」。今年のドラフト候補には、本来DH制のリーグでも投打二刀流でプレーする矢澤宏太投手(日体大)のような選手もいる。

 山田氏は78歳になった今も、スタンドから若い選手を見つめ続ける。大谷のような突き抜けた才能に、また出会ってみたいと願っている。(羽鳥慶太 / Keita Hatori)