第1次世界大戦で欧米諸国で用いられた水上戦闘機や戦闘飛行艇は、第2次世界大戦ではほとんど見られなくなりました。しかし日本だけは使い道を見出し、零戦改造の水上戦闘機を生み出しました。

水上機は滑走路いらず 飛行場の開設必要なし

 日本が開発した軍用機の中で唯一、1万機以上作られた零式艦上戦闘機、通称「零戦」は、旧日本海軍が後継機の開発に手間取ったこともあり、太平洋戦争末期になっても改良発展型が開発されていました。そのため、零戦は初期型の一一型から終戦時にテスト中だった五四型まで10以上もの種類があり、さらに練習機型なども存在します。


零式艦上戦闘機をベースに各種改造を施した二式水上戦闘機。

 そのなかでも一風変わった派生型なのが「二式水上戦闘機」、通称「二式水戦」です。練習機型も含めてほかのタイプはすべて「零式」と呼ばれたのに対し、これだけ「零式」とついていません。それはなぜでしょう。

 そもそも、水上戦闘機とは、海面や湖面などに離着水できる水上機の戦闘機仕様で、飛行場が未発達だった第1次世界大戦では、各国で使用されました。また黎明期の飛行機は、エンジンを含めて信頼性が低かったため、不意のエンジンストップなどでも海洋や河川、湖などに降りられる水上機の方が、安全性が高かったという側面もあります。

 しかし、技術が進歩し飛行機の性能が上がるにつれて、フロート(浮きいかだ)部分が速力や機動性を向上させるうえでの障害となり、またエンジンなども信頼性が向上したことで、水上戦闘機はほとんど消え、欧米諸国において水上機や飛行艇は、偵察用や観測用などの支援用に特化するようになりました。

 しかし、日本ではいささか事情が異なっていました。旧日本海軍は、来るべき対米戦争では太平洋が主戦場になると想定しており、南太平洋に点在する島々を占領した際には、飛行場が完成するまでのしばらくのあいだ、水上戦闘機を配置しようと考えました。

 水上戦闘機なら飛行場が必要ないため占領後すぐさま展開でき、周辺の制空権を維持しつつ、偵察や警戒任務にも用いることが可能というわけです。

下駄を履いたゼロ 自らの役割を全う

 そのための機体として、1940(昭和15)年に川西航空機において、まず「強風」の開発が始まりました。ただし、「強風」は野心的な要求性能から当初より開発が難航しました。そこで「強風」が実運用に入るまでの中継ぎとして、既存機を用いた水上戦闘機が開発されることになりました。


二式水上戦闘機のベースに用いられた零式艦上戦闘機(画像:アメリカ空軍)。

 ベース機として白羽の矢が立ったのは零戦でした。零戦は三菱重工が開発した艦上戦闘機で、その高性能ぶりから水上戦闘機にも転用することになりました。しかし零戦の開発元の三菱は、1940(昭和15)年当時、零戦の生産だけでなく、一式陸上攻撃機と局地戦闘機(いわゆる迎撃戦闘機)「雷電」の開発で余裕がありませんでした。

 そこで、旧日本海軍は水上機の開発ノウハウがあり、また三菱を補完すべく零戦の生産を行っていた中島飛行機に、中継ぎとなる水上戦闘機の開発を命じました。こうして1941(昭和16)年初頭から中島飛行機で開発はスタート、ベースとなる機体があったため1年足らずで開発完了し、太平洋戦争開戦日である同年12月8日に試作機が初飛行します。

 しかし機体の性能自体は問題なかったものの、水上機として用いるための海水による腐食対策に苦心しました。零戦は空母で運用する艦上機でしたが、飛沫など直接海水を浴びることはないため、電気系統含めて重点的に対策を施す必要がありました。

 また、フロート装着による重量増や、抵抗の増大によって起きた機動性の低下をカバーするために、垂直尾翼にある方向舵(ラダー)の面積を拡大するなど、機体各部にさまざまな改良も加えられました。

 かくして、零戦ベースの水上機は1942(昭和17)年7月6日に「二式水上戦闘機」として旧日本海軍に制式採用され、翌年9月まで約1年のあいだに327機生産されました。

アメリカは工業力と機械力で水戦の必要なし

 二式水戦は、太平洋戦争緒戦の日本の戦線拡大によって、開発時の構想どおり飛行場設営が追い付かない最前線で活動し、北はアリューシャン列島から南はソロモン諸島まで、様々な場所で要地防空や船団護衛、海洋哨戒など多用途に用いられました。


太平洋戦争中、南太平洋の水上機基地で翼を休める二式水上戦闘機(画像:アメリカ海軍)。

 しかし、このような水上戦闘機は日本特有で、第2次世界大戦においては他国で同種の機体はほとんど使用されませんでした。一応、アメリカ海軍ではF4F「ワイルドキャット」戦闘機にフロートを付けたF4F-3S「ワイルドキャットフィッシュ」が、イギリス海軍では「スピットファイア」戦闘機にフロートを付けた水上戦闘機型がそれぞれ製作されましたが、これらは試作で終わっています。

 そもそも、アメリカは圧倒的な工業力と機械力によって、陸上であれば多数の重機を持ち込んで、短期間で飛行場を作り上げる能力を有していました。また大戦後半になると大量生産した各種空母によって、艦載機によるエアカバーが可能となり、艦載機よりも低性能な水上戦闘機の必要性がなくなりました。

 イギリスについては、島しょを取り合う戦闘を想定しておらず、対日戦が勃発したため急遽、水上戦闘機を製作したものの、陸戦主体のヨーロッパ戦線では必要なく、大西洋ではアメリカ供与の空母と艦載機で間に合っており、さらにイギリスの対日戦はインド方面で、水上機の出番はありませんでした。

 結局、第2次世界大戦(太平洋戦争)における水上戦闘機自体が、土木機械が足りない日本ならではの機体だったといえます。そのため日本の形勢が不利になると、活動の場は減りました。

 ちなみに本命の「強風」については、二式水戦の生産終了後となる1943(昭和18)年12月1日に制式採用されましたが、ほとんど活躍することなく生産もわずか97機で終了しています。