学生の窓口編集部

写真拡大

スポーツなどで「今日が天王山ですね」というような、先行きを決定付ける重要な試合を「天王山」と呼びます。これは豊臣秀吉と明智光秀が戦った、天王山の戦い(山崎の戦い)が由来となっています。

しかし、この「天王山」を押さえることで、勝敗が決したとされていますが、史実は違います。実際には、天王山ではなく、山崎の「宝寺」が攻守に都合の良いカギとなる場所だったのです。

この戦いにおいて秀吉を助けたのは、軍師・黒田官兵衛の奇策でした。

■明智光秀はデキる男だった?

秀吉が光秀を討つきっかけとなった出来事は、言うまでもなく「本能寺の変」です。

しかし光秀は、信長を襲う1年前、自らの家臣を戒めた「家中軍法」の中で、「私は瓦礫(がれき)のように沈んでいた境遇から、信長様に取り立てられ、強大な軍勢を任されるまでに至った」と、信長への感謝の気持ちを表していました。そもそも明智光秀という人物は、出生年も定かではなく、その人生の前半はよくわかっていません。そしてその身分は低かったと考えられます。

しかし、40代で信長に仕えると、すぐに織田家家臣の中でもイチバンの出世頭となりました。その証拠に、誰よりも早く近江坂本城主となり、その後、丹波一国を加増されて、さらに亀山城主になったのです。坂本と亀山は、京都東西の要衝です。信長は、光秀に大いに期待し、仕えて日の浅いにもかかわらず、織田家の古参武将と同等の扱いをしたのでした。

武闘派の多い織田氏家臣団の中にあって、光秀は和歌や茶の湯に通じた教養人でした。京都で光秀は、朝廷との交渉役となったり、公家との連歌会に参加して歌を詠むなど、他の武将たちができない役割を果たし、信長に貢献しました。

そのうえ、抜群の射撃技術を持っていたため、戦にも強かったのです。結果を出せない者はリストラされる超実力主義の織田家においても、その才覚は抜きんでていました。そして情にも篤く、戦死者の葬儀にしても、侍大将も下っ端の足軽も関係なく同額の葬儀費用を出していました。おそらく光秀は、頼れる大将でした。

ではなぜ、光秀は信長を討ったのでしょう。信長を恨んでいたなどさまざまな説がありますが、その真相はいまだにわかっていません。

■黒田官兵衛の奇策

本能寺の変にて、光秀は信長の首を取らなかった(取れなかった?)ことが、致命的なミスでした。なぜなら秀吉がそれを利用したのです。

本能寺の変が勃発していたころ、秀吉は備中高松城を水攻めにし、毛利の大軍と戦の最中でした。

しかし毛利側は早く講和したいと考えていましたし、秀吉もそれを察していました。そのため、信長の死を知ると、すぐに和睦して「中国大返し」で京都へ向かいます。

秀吉は道中「信長様は生きている」という噂を流しました。もしこれが本当だった場合、光秀の味方になることで、自分たちがどうなるか。信長が自刃したと知っていても、首が出ていない、という事実で諸将たちは迷ってしまったのです。

その結果、光秀と親友だった細川藤孝とその息子の忠興も、織田家の傘下へ入る際に力添えをした筒井順慶も、光秀の味方となってくれませんでした。

こうして山崎に到達するころには、秀吉は織田方の諸将を吸収し、4万の軍勢に膨れ上がったのです。さらには、軍師である黒田官兵衛は陣中に毛利氏の旗を掲げました。これは、和議が整って兵を引いた毛利に頼み、旗だけを借りたのです。

光秀にしてみれば、組んで秀吉を攻撃しようとした毛利が、同盟を拒否し、秀吉と共に攻めてきたとしか見えません。こうして官兵衛は秀吉の先鋒隊とともに「宝寺」を占拠し、開始から約3時間でサクッと勝利をおさめたのでした。

■まとめ

 ・天王山は「激戦」ではなく、心理戦だった

 ・重要拠点は「宝寺」で、天王山はほぼ無関係…

黒田官兵衛の戦い方は、人間の心理を利用し、味方の士気を高め、相手の戦意を失わせます。効率は良いですが、姑息とも考えられる手段でした。

この考え方が勝つためには必要だったことなのでしょう。その証拠に官兵衛は生涯戦で負けることはありませんでした。

(沼田 有希/ガリレオワークス)