菅 義偉・官房長官(時事通信フォト=写真)

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「脱派閥」と「世襲打破」を唱える菅義偉官房長官は自民党でも異色の存在だった。派閥を渡り歩き、安倍政権を支える官房長官に駆け上がった政治家の力の源泉を探る。

■「官邸主導」を支える菅官房長官

3月14日、内閣人事局の新設を柱とする公務員制度改革関連法案が衆議院本会議で可決された。今国会での成立は確実で、夏の人事から首相や官房長官、各閣僚の協議で各省庁の幹部人事を決める新制度がスタートする。

伝統的な自己完結人事を死守したい霞が関の官僚機構や「強すぎる官邸主導」を懸念する自民党内の反対を押し切って、新しい国家公務員制度づくりに指導力を発揮してきたのは、安倍晋三首相の最側近で「政権の要」と呼ばれる菅義偉(よしひで)官房長官である。

第二次安倍内閣の発足直後の2013年1月、アルジェリア人質事件に遭遇したとき、前例がないと難色を示す防衛省の抵抗を跳ね返して、邦人救出のために政府専用機の派遣を命じた。

政権交代直前に日本郵政社長に就任した大蔵省出身の坂篤郎(元内閣官房副長官補)を、民営化に逆行するとして在任半年で更迭させただけでなく、辞任後の顧問就任を強く非難して14年3月5日、退任に追い込んだ。

2月初めには、官房長官が統括する内閣府のあり方について、肥大化による弊害を指摘して縮小論を唱え、「省庁再編が狙いか」と話題を呼んだ。

一方、法人実効税率引き下げや成長戦略の実行計画案などの問題をめぐって、自民党側で「官邸主導」への反発が高まり、党の税制調査会や石破茂幹事長が菅に文句を言う一幕もあった。

第二次安倍内閣の発足から1年3カ月、景気回復、参院選勝利、高水準の内閣支持率など、政権は好調を維持しているが、舵取りは菅の手腕に負うところが大きい。産業競争力会議のメンバーで安倍や菅と交流が深い竹中平蔵元総務相(現慶大教授)が語る。

「東京オリンピック招致も全部、首相官邸主導でやっている。菅さんのシナリオだと思う。よく覚えているのは、1対1で昼食をともにした際、『独立行政法人の年金積立金管理運用(GPIF)をうまく使えば、株価にもすごく効果がある』と話をしたら、ぱっと採り入れた。厚生労働省は絶対反対だったけど、『見直しのために有識者会議をつくる』と一言入れた。いま安倍内閣の第三の矢の一つになり始めている。これは菅官房長官一人の力ですよ」

菅は横浜市議の後、1996年の総選挙で神奈川2区から自民党公認で初当選し、以後連続6回当選を続けている。初当選が同期の平沢勝栄(現自民党政調会長代理)が印象を述べる。

「裏方に徹する、絶対に裏切らない、口が堅い、ひたすら尽くす。いろいろな人の意見を聞く。自分では喋らず、徹底して聞き役になる。官房長官に打ってつけです。安倍さんは後ろを振り向かずに一人で突進する面があるが、抑え役としては最高のコンビです。公務員制度改革の問題でも、役人が表立って何も言わないのは、高い内閣支持率もあるが、菅さんの存在が大きい。政治家としてさらに大きく伸びると役人が見ているからだと思う」

菅は就任以前に一度、07年8月の第一次安倍内閣の改造で官房長官候補と見られたことがあったが、自身の事務所費問題が報じられて「幻の官房長官」に終わった。5年後にやっと実現したが、官房長官は「一度はやってみたいと思っていた」と明かした。

■目立たない存在の野球少年だった

目標は「師」と仰ぐ梶山静六(元自民党幹事長)である。

菅は75年に小此木彦三郎(後に通産相)の秘書となった。それが政治の世界のスタートだった。小此木は中曽根派、梶山は田中派と派閥は別だが、初当選が同期で、国対・議運族として呼吸が合った。梶山の長男の梶山弘志(現衆議院国土交通委員長)は、「掛け合い漫才のように、ふざけるのも真面目な話も、いつも一緒だった」と振り返った。

梶山静六は96〜97年、橋本龍太郎首相の下で官房長官を務め、98年の自民党総裁選に出馬したが、小渕恵三(元首相)に敗れた。菅は「梶山の教え」をいまも忘れない。

「自分の思いをきちんと持たなければと教わった。派閥は駄目、と。官僚の使い方とマスコミとの対応も。『官僚は自分たちの考えがあり、政治家に説明するとき、必ずそれを入れてくる。おまえなんかすぐに騙される。それを見抜く力を持たなければ』ときつく言われた。マスコミは『取材するときに最初から一つの方向を決めてくるから気をつけろ』と言っていた」

梶山は成長型社会の終焉という変化に着目し、「右肩上がりだった俺たちの時代と違って、これからはどんどん悪くなる。説明責任を果たせる政治家でなければ」と強く諭したという。

選挙は神奈川県だが、菅の出身は秋田県だ。48年12月に雪深い内陸部の雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)で農家の長男に生まれた。

父・和三郎は戦前、大陸で南満洲鉄道に勤務し、戦後は故郷で農業を営んだ。後にいちごの栽培事業で才腕を発揮し、秋ノ宮農協のいちご組合の組合長や雄勝町議を務めた。菅は秋ノ宮小、秋ノ宮中から県立湯沢高に進む。秋田時代、とくに目立つ子ではなかったようだ。小学校から高校まで一緒で、菅の生家から約1キロの場所で商店を営む伊藤英二が回想する。

「お父さんは豪放磊落で人をぐいぐい引っ張っていく感じだったが、義偉君はみんなをまとめて仲良くさせていくタイプだった。運動神経は抜群で、野球、相撲、水泳、木登り、魚捕りなど、何をやってもうまかった。高校2年まで野球をやっていて、中学校ではサード。野球部を辞めてからは俄然、勉強をするようになった」

旧十文字町(現横手市)の元町長の小川健吉(現十文字リーディングカンパニー社長)も高校の同級生だ。

「冬は湯沢に下宿ですよ。義偉さんは目立たなかった。殻に閉じこもって、自分を出さないでやってきた人じゃないかな。3年生のとき、進学組のクラスだったけど、成績は飛び抜けていたほうではなかったと思う」

元教師の母親の影響もあって、北海道教育大を受験したが、失敗した。

農家を継ぐのが嫌で、単身で東京に出た。段ボール工場で働いた後、築地市場の台車運びなどをしながら、苦学して法政大の法学部法律学科を卒業した。一度、民間企業に就職するが、政治の世界に、と思い立った。

■「水を得た魚」だった政治家秘書の時代

「人生で一番嬉しかったことは」と菅に尋ねた。初当選、初入閣、あるいは官房長官就任では、と予想したが、意外にも「政治家の秘書になったとき」という答えが返ってきた。

菅が自身の軌跡を明かす。

「何かあるのではと思って東京にきたが、何もない。現実は厳しかった。やりたいことをやるべきだと考え始め、大学に入って考えようと思った。卒業してサラリーマンになったけど、会社で決まったことをやるのではなく、自分で決めてやりたいことをやる。それは政治と思った。大学では普通のノンポリ学生で、誰かの影響を受けたり、何かきっかけがあったわけではない」

秘書となる経緯はこうだ。

「政治といっても、誰も知っている人はいない。大学の就職課でOB会の事務局長を紹介してもらい、その人が法政大OBの中村梅吉さん(元衆議院議長)の秘書につないでくれた。中村さんは引退という話になり、同じ中曽根派の小此木さんの事務所に。その前に74年の参院選で東京の自民党候補の選挙を手伝った。朝から晩まで頑張った。水を得た魚じゃないけど、探し求めていたのはこれだと思った」

菅は26歳のとき、徒手空拳で未知の世界に飛び込んだ。小此木事務所ではもちろん末席である。菅の秘書生活は11年に及んだが、最初の2年は小此木の秘書のまま、神奈川県議の梅沢健治(元自民党神奈川県連会長)に預けられた。梅沢が思い出を語る。

「言われたことは徹底してやる。本当に自己犠牲ができる人で、滅私奉公という言葉が一番、似合う。嘘をつかない。それに聞き役がうまい。人の心をつかむから、世情を見るのも早い」

83年12月、小此木が中曽根内閣の通産相となった。菅は半年後に大臣秘書官に起用された。外遊に同行してはじめて外国も体験した。「日本はこんな国だと教えてくれた人です。政治の視野を広げ、目覚めさせてくれた」と、菅は振り返る。

秘書になったときは、市議や県議は手が届かない遠い存在だと思った。だが、何足も靴を履き潰して歩き回った秘書生活で、確実にファンが増えているという手応えがあった。

87年4月に小此木の選挙区の横浜市西区から市議選に出馬した。「農家の長男」にとっては、秋田との決別は苦しい選択だったが、望郷の思いを断ち切った。一発で当選を果たして政治家人生に踏み出した。

1年生市議なのに、すぐに異彩を放ち始めた。同じ自民党の市議で1期先輩の田野井一雄(元横浜市議会議長)がその場面を述懐する。

「すごいと思ったのは、長老支配に対して平気でやり合う。議長を決めるときなどに、長老が『こうしろ』と言うと、菅さんが『大先輩、それはおかしいじゃないですか。みんなの総意で決めるべき』と。未来に責任を持ち、ぶれない。『意志あるところ道あり』という彼の姿勢を見てきた」

元県議の梅沢も証言する。

「秘書の頃、陳情などであのくらい国の役人を使いこなした人はいない。小此木さんが大臣を務めた通産省や建設省を含め、政策の面で役人に通じていた。小此木さんは横浜市長の人選などで大きな力があり、その秘書として裏は全部、勉強した。小此木さんが亡くなった後は、みんな菅さんに頼るしかないという雰囲気で、経済界の応援団や役人との勉強会など、人脈のネットワークを引き継いだわけです」

市議を2期務めた後、初めて小選挙区・比例代表並立制の選挙が実施された96年10月の総選挙で国政に転じた。中選挙区時代、横浜市域は旧神奈川1区と旧神奈川4区だったが、小選挙区で1〜8区に分かれた。93年に初当選した小此木の息子の小此木八郎(現自民党国対委員長代理)は新3区に回る。菅は新2区から出馬した。

「最初の市議選はしがらみを乗り越えた苦しい選挙だったけど、衆院選は俺しかいないだろうという感じで、まったく怖さはなかった。当たり前みたいな感じの選挙だった」と菅は言う。

(文中敬称略)

(ノンフィクション作家 塩田潮=文 尾崎三朗=撮影 時事通信フォト=写真)