新装刊第2弾の5月号、表紙は及川正通による「スター・ウォーズ」新作

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 エンタメ情報誌「ぴあ」が、「とぶ!ぴあ」となって、新装刊された。“紙”としての「ぴあ」は、2011年に休刊しているので、15年ぶりの復活である。表紙は、おなじみ及川正通氏で、ゴジラが描かれている。ゴジラが服を着ている姿は、これが初めてらしい。折込の第2表紙は、映画「国宝」の吉沢亮だ。

【写真を見る】「自分の頭でモノを考える力を」…矢内社長の熱い想いを体現した新創刊と、思わず「懐かしい!」と言ってしまいたくなる「ぴあ」の名物表紙

 この復活を、「ぴあ」創業者・初代編集長は、どんな思いで見たのだろうか――多忙な合間を縫って、矢内廣社長のお話をうかがうことができた。

 だがその前に――もしかしたら、いまの若い方々は「ぴあ」と聞いても、チケット販売システム「チケットぴあ」しか思い浮かばないかもしれない。情報誌「ぴあ」は、日本の出版界に“革命”を起こしたといっても過言ではない画期的な雑誌であった。まず、その歴史について、簡単に説明しておこう。

新装刊第2弾の5月号、表紙は及川正通による「スター・ウォーズ」新作

「ゴッドファーザー」と「団地妻」が並んでいる雑誌

 映画・演劇・音楽の総合ガイド誌、月刊「ぴあ」が創刊されたのは、1972年7月である。定価100円。中央大学法学部の4年生、矢内廣が、仲間たちとともにつくりあげた。矢内は、福島県の現いわき市出身、映画好きな青年だった。だが学生はカネがない。そこで、安く見られる「名画座」へ通っていたが、当時はいまのようなインターネットのある時代ではない。

〈「あの監督の、この作品が見たい」と思っても、いまどの映画館でやっているのか、上映は何時からで、料金はいくらか、という肝心の情報を伝えるメディアは、ほとんどなし。せいぜい新聞夕刊の3行広告や、映画専門誌『キネマ旬報』の名画座情報くらいで、東京都内の映画館を網羅するようなものはありませんでした。〉(矢内廣著『岩は、動く』ぴあ刊より)

 たしかにこの当時は、事前に映画館に電話をかけて上映時間を確認するか、あるいは、時間は気にせず、とにかく行って途中から観る。つづけて2回目の上映を最初から観て、「ああ、さっきここから観たんだっけ」と、納得して退出する……そんな鑑賞スタイルが当たり前だったのだ。

 そこで、「映画や演劇、展覧会やコンサートなど、カルチャー系の“見たいもの”すべての情報を網羅した媒体」というコンセプトで、「ぴあ」を創刊した。内容は、いたって“即物的”だった。

〈編集方針のベースに置いたのは、「いつ」「どこで」「誰が」「何を」という客観情報だけを載せる、ということでした。裏を返すと、作り手の主観は排除し、正確な情報を網羅することだけを考える。(略)例えば著名なアーティストに関するメジャー情報も、自主制作映画のようなマイナーな情報も、掲載される時は同じ扱いで、編集上の操作は行いませんでした。〉

 この編集方針は実に新鮮だった。たとえば創刊号を見ると、テアトル東京の「ゴッドファーザー」、丸の内ピカデリーの「男はつらいよ・柴又慕情」、新宿日活オデオン座の「団地妻・忘れ得ぬ夜」が、まったく同格で扱われているのだ。そのほか、東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)の「占領下の日本映画」特集、渋谷・天井桟敷館での寺山修司映画の自主上映などという、かなりマニアックな企画も、ふつうに載っていた。

 だが問題は、矢内たちには「販売ルートがない」ことだった。

“紙”の時代は終わったので……

 書店で本や雑誌を売ってもらうには、取次を通して配本してもらわなければならない。しかし取次は、安定して定期刊行できる版元でないと、扱ってくれない。無名の学生がつくったミニコミ誌は、とうてい無理だった。

 しかし矢内は、持ち前の行動力を発揮し、紀伊國屋書店の田辺茂一社長、日本キリスト教書販売の中村義治専務(のちの銀座・教文館社長)といった大先輩の推薦を得て、都内89店の書店に直接納入することが可能となる。創刊号は1万部刷って2000部しか売れなかったが、4年後には8万部を突破。1974年に法人化し、10万部を突破。直販店舗は首都圏1600店にまで増え、毎月、トラック隊が3〜4日かけて配っていた。

「ぴあ」が人気となったもうひとつの理由は、なんといても、及川正通の表紙イラストだった。人物をリアルに、かつユーモアたっぷりにデフォルメしていた。中には、映画のテーマを見事に描いて、本家のポスターを凌ぐようなアーティスティックなイラストもあった。

〈「矢内さんはね、少々くたびれた紺の背広姿、小脇に風呂敷包みを抱えてやってきたんですよ。(略)いざ、矢内さんが口を開くと、情報誌を通しての、いろいろな夢と希望と企画の数々が飛び出してきた、熱かったねえ。」〉(『ぴあ』2011年8月4・18日合併号=最終号、及川正通インタビューより)

 この及川正通の表紙イラストは1975年9月号、映画「フレンチ・コネクション2」のジン・ハックマンからはじまり、休刊まで1300点以上を描きつづけ、「同一雑誌の表紙を最も長く描き続けたイラストレーター」として、ギネス世界記録に認定されている(休刊後もアプリ版にイラストを寄せている)。

 やがて取次から、正式に扱いたいとの連絡が来て、トラック配本は1976年9月が最後となった。毎月、仲間たちが、自分や家の車を使って自前配本を手伝ってくれた。だがもう、来月からはこの苦労もしなくてよいのだ。矢内は、配本終了後、みんなに集まってもらった。

〈矢内はみんなに深々と頭を下げた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。みんなも目を潤ませている。〉(掛尾良夫『「ぴあ」の時代』小学館文庫より)

 その後、「ぴあ」は、自主制作映画祭「ぴあフィルムフェスティバル」(PFF)を開催、日本映画界に多くの若い才能を送り込むことになる。また、チケット販売事業に進出。関西版や中部版なども発刊。日本を代表する、エンタメ総合サービス企業となるのである。

 だが、デジタル盛況の時代となり、先述のように“紙”の「ぴあ」は2011年7月に休刊となる。

「たしかにいまは、どんな情報でもネットで入手できます。よって“紙”の時代は終わったということで、休刊にしました」

 と、「ぴあ」初代編集長で、創業者の矢内廣社長が語る。以下は、矢内社長の話である。

「とぶ!」の意味は……

「『ぴあ』自体はずっと黒字でしたが、さすがにデジタル全盛になり部数が下がってきた。赤字になるのは当然です。これ以上引っ張っても仕方ない。あまり悲惨な状況にはしたくないということで、ぼく自身が言い出して、休刊にしました。つらかったですよ」

 その後、「ぴあ」は、アプリ版に移行した。

「アプリ版では、〈エンタテインメントとの偶然の出会いと発見〉をテーマに、いろいろ比較して選べたり、各ジャンルに詳しい“水先案内人”のガイドを入れたりしました」

 同時に、そのころ世の中は、誰もがGoogleで情報を検索するようになっていた。

「しかし、Googleなどの検索では、どうしても行き当たらない情報もあるんです。たとえば、今週末になにか面白い映画がないか……どこかで西洋絵画のいい美術展を見たい‥‥と思っても、具体的な作品名や美術館名がわからないと、検索のしようがない。Googleは、いわゆる“あいまいな検索”は、得意じゃないんですね。そこで、情報の選択方法は、ネットだけではないのでは……と、前からなんとなく感じていたんです。」

 そこで、むかしながらのアナログ的な考え方が、よみがえってきた。

「つまり、出会いの方法として、ネットと同時に“紙”もあってよいのではないか、と。“紙”のほうが、パラパラとめくってなにかいい映画がないかと探すのには、向いています。幸い、チケットぴあの会員数は2000万人超、ぴあカード会員数は40万人、そしてアプリ版のダウンロード数も200万人超くらいまできました。それらに、“紙”からすぐにアクセスできるようにすればよい。つまり、まず情報を“紙”で選び、そこからQRコードで、さらに詳しい情報やチケット購入へ『とぶ!』雑誌にしたのです」

「ぴあ」が「とぶ!ぴあ」と題して新装刊した際、「とぶ!」とはどういう意味かと不思議に思った方もいるだろう。つまり「とぶ!ぴあ」は、以前の「ぴあ」とは少々ちがい、あくまで“入口”として、作品名やイベント名が、最低限の紹介文で並んでいる雑誌なのだ。(水先案内人の「私の“イチ”推し」などのコラムも多くある)。興味を抱き、劇場やタイムテーブルが知りたければ、そこからQRコードで「とぶ!」のである。

「とぶ!ぴあ」があつかうのは、〈MOVIE〉〈STAGE〉〈ART〉〈CLASSIC〉〈MUSIC〉の5ジャンルである。美術(ART)とクラシック音楽(CLASSIC)を大きく扱っているのが特徴だ。

「やはり、エンタテインメントは、この5ジャンルがベースだと思うんですよ。それぞれのなかに、さらにいろんなエンタメが詰まっている。たとえば〈STAGE〉には新劇もあれば歌舞伎もある。〈CLASSIC〉にはピアノ・リサイタルもあればオペラもある。これらも偶然の出会いです。意外と狭いジャンルにとどまるのでなく、もっと広く接してほしいという気持ちもあります」

自分の頭でモノを考える力を

「とぶ!ぴあ」の新装刊が具体的に決まったのは、昨年の夏から秋にかけてのことだった。

「そこからよく、4月の新装刊に間に合ったと思いますよ。実は今回の『とぶ!ぴあ』は、東宝さんの新会員サービス『TOHO-ONE』と提携しているんです。それが4月からはじまるということで、何としても、4月に出さなければなりませんでした。年末もたいへんでしたが、現場は、よくやってくれました」

「ぴあ」の事業のひとつに、先述したPFF(ぴあフィルムフェスティバル)がある。これも矢内社長によって1977年にはじまったイベントである。若い映画作家たちを発掘し、応援する映画祭だ。昨年で47回を数えている。1982年、矢内社長がフランソワ・トリュフォーにPFF参加を要請したら、ほんとうに来日してくれたことでも話題になった。

「昨年大ヒットした映画『国宝』の李相日監督は、PFF出身です。『青〜chong〜』が、《PFFアワード2000》でグランプリをふくむ4部門を受賞。そのときのスカラシップ(3000万円)で2003年に『BORDER LINE』を監督、本格デビューします。その後、2006年に『フラガール』で映画賞を独占、以後、『悪人』『怒り』などの名作を経て、昨年の『国宝』に至ります」

 PFFからはほかにも、森田芳光、石井聰亙、黒沢清、橋口亮輔、矢口史靖、荻上直子など、錚々たる監督たちを輩出している。また、2020年からは、PFFの主催で大島渚賞を設立(大島渚はPFFの審査員を長年つとめた)。こちらはすでに活躍している映画監督の作品を顕彰している。

「この国では、いまでも年間600本もの日本映画が公開されています。それはPFFのおかげだという方がいます。乏しい資金でも、とにかく映画をつくって、多くのひとに観てもらいたい――それはPFFによって養われた精神だというわけです」

「ぴあ」も「とぶ!ぴあ」もアプリ版も、まず、映画がジャンルの中心となっているのは、そんな矢内社長の映画への情熱があるからなのだろう。

 最後に、“紙”で「ぴあ」を復活させた立場から、昨今の出版不況を、どのようにご覧になっているかをうかがった。

「マンガのある出版社は好調なようですが、たいへんな時代になったと思います。返品制度や再販制度など、日本の出版界独特の問題があるともいわれますが、やはり、若い人たちが本を読まなくなったことが大問題だと思います。検索機能やAIのおかげで、なんでもすぐ回答が得られる。よって、本を読んで知識を得る必要がなくなってしまった。もっと脳をアナログ的に使って思考する経験を増やさないと、ますます本は読まれず、出版業界は委縮してしまうと思います。それには、なにか社会的な変革やキャンペーンでも起きないかぎり、無理かもしれません。実は、映画や音楽、演劇もおなじです。むかしのアナログ志向でつくられた映画や、配信ではない生のステージで音楽や演劇に接しないと、わたしたちは、自分の頭でモノを考える力を失ってしまうような気がするんです」

「とぶ!」先にあるものを、自分の頭で見つけられるかどうか――QRコードはデジタルだが、月刊「とぶ!ぴあ」は、アナログ精神が根底にある雑誌なのだ。
(一部敬称略)

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部