信長を演じる小栗旬

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わずか3年しかこの世に存在しなかった

 第17回「小谷落城」(5月3日放送)で、ようやく小谷城(滋賀県長浜市)を攻略し、浅井久政(榎木孝明)と長政(中島歩)の父子を切腹に追い込んだ織田信長(小栗旬)。そうしたらもう、第19回「過去からの刺客」(5月17日放送)では、安土城(滋賀県近江八幡市)を築くという。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、このところ時代がどんどん先に進む。

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 信長が織田家の家督を嫡男の信忠(小関裕太)に譲り、自分は天下一統を見据え、その拠点として、琵琶湖畔に突き出た安土山に広壮な城を築きはじめる――。小谷城が落城したのは天正元年(1573)9月1日で、安土築城に取りかかるのが同4年(1576)1月。しかも19回では、その翌年のことまで描かれる。1回ごとに年数がかなり進むが、安土築城は単に時代が進んだだけでなく、信長が次のフェーズに移行したことを意味する。

信長を演じる小栗旬

 ただ、主人公の羽柴秀長(仲野太賀)が没するのは同19年(1591)1月で、あと14年しかない。これからは進行を遅らせ、一つひとつの事象をじっくりと描いていく、ということだろうか。

 安土城に話を絞ると、築城が開始されて3年後の天正7年(1579)5月には天主が完成したが、わずか3年後の同10年(1582)6月2日、主の信長は本能寺を攻囲されて自害に追い込まれ、それから間もなく、天主をはじめ城の中核は焼失してしまう。安土城はきわめてエポックメーキングでありながら、完成してわずか3年しかこの世に存在しなかったことで、いまなお私たちの想像をかき立てる。

 実際、この城は単なる城ではなかった。そこには「信長の野望」が体現され、信長自身がそれについて語っていたのである。

信長の偉業を海の向こうに伝えるために

 野望の伏線は永禄12年(1569)、イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスらを岐阜城に案内するとき、すでに見られていた。その際の信長の発言を、フロイスは『日本史』にこう記している。

〈貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう〉

 続けて、案内したのちの信長の様子がこう記されている。

〈彼は私に、インドにはこのような城があるか、と訊ね、私たちとの談話は二時間半、または三時間も続きましたが、その間彼は、四大の性質、日月星辰、寒い国や暑い国の特質、諸国の習俗について質問し、これに対して大いなる満足と喜悦とを示しました〉

 ここからわかるのは、信長が海の向こうのことに関心があるだけでなく、自分および自分がつくり上げたものを外国人に見せたがり、それを海外の同種のものと比較しての評価を求めた、ということである。そのことを踏まえて、『日本史』における安土城に関する記述を読むと、「信長の野望」がよくわかる。

 イエズス会のイタリア人巡察師、すなわち日本における布教とイエズス会の運営の最高責任者だったアレッサンドロ・ヴァリニャーノが安土城を訪れたとき、信長の歓待ぶりはすごかった。『日本史』にこう書かれている。

〈巡察師が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分のある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついで内部からも見せ、どこを通り何を先に見せたらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自ら三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行ない、彼らが城の見事な出来栄えを賞讃するのを聞いて極度に満足の意を示した〉(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)

 あきらかに信長は、絢爛豪華な自分の城を外国人に見せることで、その威容が海外に伝わり、結果として、日本における信長の偉業がヨーロッパのような遠方まで伝わることをねらっている。

宣教師のベタ褒めは信長のねらい通り?

 その甲斐あって、フロイスは『日本史』で安土城をベタ褒めしている。

〈信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。(中略)石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である〉

 信長はフロイスらに、安土城がヨーロッパの城とくらべても遜色なく、あるいはそれ以上にすばらしいと伝えてほしいと、再三依頼したのではないだろうか。フロイスの記述を続ける。

〈この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のようにも見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取付け頭がある。(中略)このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである〉

 さて、信長は巡察師ヴァリニャーノが安土を発つ前に、〈さらに大きい別の好意を示した〉(フロイス『日本史』)という。そこには続けてこう書かれている。

〈一年前に信長が作らせた、屏風と称せられ、富裕な日本人たちが、独自の方法でもちいる組み立て(式の)壁である。(中略)彼はそれを日本でもっとも優れた職人に作らせた。その中に、城を配したこの市を、その地形、湖、邸、城、街路、橋梁、その他万事、実物通りに寸分違わぬように描くことを命じた。この製作には多くの時間を要した。そしてさらにこれらを貴重ならしめたのは、信長がそれに寄せる愛着であった〉

海外におけるイメージアップ戦略

 要するに、信長は狩野永徳に命じて、安土城と城下町を屏風にきわめて精密に描かせ、完成した屏風に大いなる愛着を寄せていた、ということだ。なにしろ、正親町天皇から「屏風を譲ってほしい」と懇願されても、信長は断ったという。それほど特別な屏風を、信長はヴァリニャーノには躊躇なく贈ったのだ。

 フロイスによれば、信長は〈伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ねて来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい〉と、自分から申し出たのだという。

 自身の偉業を、宣教師たちに見せるだけでなく、実際に描写されたものを彼らに送ることで、画像として具体的に伝わるように企図したのである。

 事実、この屏風はその後、天正遣欧少年使節に託され、ローマ教皇グレゴリウス13世に献呈され、ヴァティカン宮殿の地図の間にしばらく展示されていた。その後、長く行方不明になっているが、これが見つかれば、安土城の外観を復元するうえで決定的な史料になると考えられている。ともかく、この屏風がヨーロッパに届けられたことで、安土城という名とその雄姿は、日本建築としてはじめてヨーロッパに正確に伝えられることになった。

 これほど大事にしていた屏風を贈ったことからも、信長がなにを願っていたかがよくわかる。自身をヨーロッパの王にも比肩し得る君主であると、ヨーロッパをはじめ諸国に伝えたいと強く願っていたことは、疑う余地がない。実際、信長は海外進出を目論んでいたとされる。秀吉の朝鮮出兵とは異なる巨大艦隊による進出で、貿易の範囲のつもりだったか、侵略をともなうつもりだったかはわからない。

 いずれにせよ、そのためにも自身のイメージを世界においてアップさせたいというのが、当面の「信長の野望」だったと思われる。だが、屏風を載せた船が長崎港を発った4カ月後、信長は本能寺に斃れることになった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部