今治城の藤堂高虎像(写真:beauty_box/イメージマート)


 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第15回「姉川大合戦」では、信長は北近江へ進軍を開始し、姉川を挟んで朝倉・浅井軍と対峙。両軍は対決の時を迎えるが……。今回放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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なぜ大河ドラマの「朝倉義景」はこれほど頼りないのか

 大河ドラマの醍醐味の一つが、主人公を取り巻く人間関係がよく理解できることだ。通常だとなかなかスポットライトが当たりづらい歴史人物のことを、改めて知ることにもつながっていく。

 ここ数回の放送では、織田信長が敵対した朝倉氏がクローズアップされており、今回は鶴見辰吾演じる11代当主の朝倉義景(よしかげ)が登場した。

 朝倉氏は浅井長政を寝返らせて、金ヶ崎の戦いで信長軍を追い詰めた。ここからは、いよいよ浅井と全面的に手を組んで、信長を追い詰める……かと思いきや、朝倉義景は「金ヶ崎で信長を討ち損じたのは浅井のせいじゃ」として、自身の出陣は拒否。朝倉一門の朝倉景健(かげたけ)を送り込んだ理由をこう語っている。

「万に一つ、わしが出ていって負けるようなことなどあってはならぬからのう。ここ一乗谷におる限りわれらは盤石よ」

 リスクを背負わず、安全策に走るリーダーの姿は何とも頼りないが、朝倉氏の歴史をひもとくと、その理由も見えてくる。

 但馬で興った朝倉氏は、南北朝の争乱の中で、足利氏の氏族である斯波高経(しば たかつね)の配下となる。高経が室町幕府から越前の守護に任じられると、朝倉氏もそれに従った。

 越前の地で斯波氏の重臣として活躍した朝倉氏は、5代目当主の教景(のりかげ)の頃までには、一乗谷に移城。その後、応仁の乱では、7代当主の朝倉孝景(たかかげ:「敏景」とも名乗った)が西軍として目覚ましい活躍を見せるが、東軍の細川勝元からの誘いに乗り、寝返っている。この判断が功を奏し、主家である斯波氏を出し抜いて、越前国守護職を得ることに成功した。

 戦乱に興じて朝倉氏の中興の祖となった孝景が病死した後、朝倉氏は勢いが衰えると誰もが予想したが、実際にはそうならなかった。名参謀である朝倉宗滴(そうてき)が台頭し、朝倉氏の政務と軍事を担ったからである。

 宗滴の活躍ぶりは「事実上の当主」とさえ言われるほどだった。8代当主の氏景が急死した後、9代当主の朝倉貞景(さだかげ)、10代当主の朝倉孝景(たかかげ:同名の7代当主とは別で「宗淳」とも名乗った)、そして、今回の「豊臣兄弟!」で登場した11代当主の朝倉義景と、朝倉宗滴は3代にわたって当主をサポートし続けた。

 70代後半と高齢になっても、戦場で戦い続けた宗滴。加賀一向一揆を討伐するべく出陣したが、陣中で病に倒れ、のちに没した。

 これまでも重臣たちが当主を支えて、安定運営してきた朝倉氏だったが、宗滴が抜けた穴はあまりにも大きかった。宗滴の死後、11代当主の義景は政務を担うも迷走。そこに織田信長による攻勢を受けて、朝倉氏は衰退していく。

 そんな朝倉氏の背景を踏まえると、今回のドラマでの義景の頼りなさは、朝倉氏の状況をよく表しているといえよう。

 だが、名門だけあって朝倉氏はなかなかしぶとく、今回の「姉川の戦い」で敗れてからも、信長軍との戦いは続く。いかにして滅亡するのか、そのプロセスに着目したい。

SNSでも話題を呼んだ「藤堂高虎」の圧倒的武勇

 今回の放送では、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で「姉川の戦い」が繰り広げられたが、ひと際存在感を放ったのが、浅井氏の家臣で、佳久創演じる藤堂高虎(とうどう たかとら)だ。

 巨漢の高虎は槍(やり)をぶんぶん振り回して、藤吉郎(のちの豊臣秀吉)、小一郎(のちの豊臣秀長)、蜂須賀正勝の3人を相手にしてもひるむことなく、大暴れした。小一郎も「気をつけろ。こいつ強いぞ」と気を引き締めたほどの勇猛ぶりを見せた。

 放送では、「その兜! その鎧! おまえ偉いやつか」と声をかけながら「手柄じゃ。手柄じゃ」と、戦でなんとか爪痕を残そうとする高虎の様子が描かれた。それだけ張り切るのも無理はない。高虎にとって「姉川の戦い」は初陣だった。

 藤堂高虎は弘治2(1556)年に近江国犬上郡藤堂村にて、土豪・藤堂虎高の次男として生まれた。父の主君である浅井長政に仕えて、15歳のときに初陣の「姉川の戦い」で武功を上げ、長政からは感状と脇差を受けとったとされる。

 だが、それから2年後、高虎は同僚をいさかいの末に殺害してしまい逃走。その後は浅井氏の重臣だった阿閉貞征(あつじ さだゆき)や磯野員昌(いその かずまさ)、織田家の家臣である織田信澄(のぶすみ)と、主君を転々。のちの逸話では、放浪中に餅代にも困るほど窮乏したとも伝わる。

 そんな高虎に転機が訪れたのは21歳のときのことだ。天正4(1576)年、ある人物に300石という好条件で召し抱えられることになる。その人物こそが、豊臣秀長である。今までどの主君のもとでも長続きしなかった高虎だったが、秀長のもとで覚醒することになる。

 城作りを得意として「築城の名人」とも呼ばれた高虎。ドラマでは、秀長とどのように関係性を深めていくのか。ドラマの後半になればなるほど重要度が増す人物なので、チェックしておきたい。

なぜ「姉川の戦い」で浅井・朝倉は滅びなかったか

 今回の放送では、徳川家康が「姉川の戦い」のために呼び出されるも、わざと遅れていき、情勢を見極めようとした。本音では、信長の勢いがそがれるのならば、それはそれでありがたいと考えており、積極的には出陣しなかったのである。

 さすがのしたたかさだが、信長のもとを訪れた家康が「武田への備えで遅れた」と嘘をつくも、見破られてしまう。信長の家臣たちに取り囲まれて、信長に「ほかに何か申したきことはあるか」と凄まれると、家康は観念し「誠に申し訳ござりませぬ。二度とこのようなことはいたしませぬ」と土下座。ふらふらとその場を立ち去っている。

 何とも情けない姿をさらすことになったが、その後、家康は信長の命令に従い、いったんは戦場から姿を消して敵軍を油断させてから、側面より攻撃。劣勢だった戦況を見事にひっくり返すことに成功している。

 ドラマにあったような「姉川の戦いは家康のおかげで大逆転した」という顛末は、武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』など、家康の影響が色濃い江戸期の史料に記されたもの。信ぴょう性を疑問視する声もある。

 また、江戸幕府の公式史書『徳川実記』でも「姉川の戦い」をことさら重要視しているが、敗北を喫した朝倉・浅井は、その後も信長軍との戦いを続けている。

 信長軍は「姉川の戦い」で勝利したとはいえ、裏切った浅井長政を討ち取ることはできなかった。最終的に浅井や朝倉が滅ぼされたのは天正元(1573)年の8月から9月にかけてのことであり、姉川の戦いから3年も経過している。

 江戸時代に家康の偉大さを強調するために、「姉川の戦い」での織田・徳川連合軍の勝利が過剰に意味づけされた可能性も考えられそうだ。

 今回の「豊臣兄弟!」では、家康が「姉川の戦い」で活躍しながらも、「信長に脅されて従ったにすぎない」という描き方をしている。家康をことさら情けなく描いたのは、そんな事情を加味してのことではないだろうか。

 次回は「覚悟の比叡山」。浅井の忠臣・宮部継潤(みやべ けいじゅん)の調略を請け負った藤吉郎だったが、「藤吉郎の子を人質に寄越すなら織田につく」と条件を出されることに。

 子のない藤吉郎は、姉・ともの子である万丸(よろずまる)を差しだそうと考えるが、ともに激怒されてしまう。藤吉郎に頼まれて、秀長がともの説得に乗り出すことになる。

【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『現代語訳 三河物語』(大久保彦左衛門、小林賢章訳、ちくま学芸文庫)
『多聞院日記索引』(杉山博編、角川書店)
『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(竹内理三編、臨川書店)
「姉川合戦と戦場の景観」(渡邊大門編『信長軍の合戦史』より、太田浩司ほか著、吉川弘文館)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)

筆者:真山 知幸