発売前日に“新事実が発覚”して顔面蒼白…ネットニュースでは考えられない「昭和の週刊誌」の修羅場「これでもう精いっぱいだよな」
週刊新潮は毎週火曜日の夕方が、すべての原稿が活字に組まれ、校閲・修正も終わり、いよいよ印刷にまわされる「校了日」。火曜日夜から印刷製本がはじまり、水曜日早朝に雑誌ができあがりはじめる。そしてトラックによる全国各地への配本となる。発売は木曜日である。新聞広告も、木曜日朝刊に載る。ところが、その1日半の間に、記事で書かれた事態が“変化”してしまう、あるいは記事の見通しちがいが判明した――そんな“悪夢”を目の当たりにした、貴重な昭和の体験談を紹介する。(全2回の第2回)
【写真を見る】発売日の悪夢……記事発売後に事態が急変した昭和に残る重大事件
爪が真っ黒に変色して…
北海道選出の代議士、中川一郎氏(1925〜1983)の急死が判明したのは、1983年1月のことだった(享年57)。“北海のヒグマ”の異名をとる豪快な人物で、いくつかの大臣も歴任、自民党総裁選にも立候補するなど、将来の総理大臣をうかがう、ニューリーダーのひとりであった。

この年の1月8日、中川代議士は、札幌での新年パーティーに出席したが、かなり疲れていた様子で、はやばやとホテル内の自室に入ってしまった。翌9日朝、意識不明の状態で発見。救急病院にかつぎ込まれたが、すでに心肺停止……蘇生措置の甲斐もなく、死亡が確認。死因は「急性心筋梗塞」と発表された。
中川代議士は、前年末の自民党総裁選に立候補し、それこそ東奔西走で日本中を駆け回っていた。ヘリコプター、セスナ機、新幹線を乗り継いでの強行軍で、疲労の極に達していたという。だが、投票結果は落選。どうやら、そのときの疲労が抜けないまま、新年を迎えたようであった。もともと大酒吞みで、タバコも1日100本のヘビースモーカーであった。
週刊新潮では、中川代議士の最期の過酷な日々と、政治家の健康管理の難しさに焦点をあてた特集記事を組んだ。それが、《いまだから言える、中川一郎代議士の予測された「突然の死」》(1983年1月20日号)である。記事には、中川代議士の健康状態を気づかっていた周辺人物のコメントが次々と、登場する。
〈「暮れの三十日にラジオ番組のインタビューで中川さんと一緒になったんだが、その時、彼の左手がすごく震えるんだよ。それを右手で必死に押さえている。(略)番組の後、酒と煙草の量を減らして体に気をつけて下さいと、さんざんいったんですがね…」〉(自民党の同志、浜田幸一代議士)
〈六日に、中川氏は主治医のI医師(記事では実名)の健康診断を受けた。I医師によると、「この日の診断では全然異常は認められなかった。心電図も脈拍数も正常でした。ただ、総裁選が終わってからは、よく“疲れた”とおっしゃっていました。再三、“静養した方がいいですよ”とアドバイスしましたが…」〉
なかには、中川代議士の爪が真っ黒に変色していたとの目撃談もあり、〈爪が黒く変色したのは、タバコの吸い過ぎによって起こる症状〉との解説もある。
いずれにせよ、中川代議士は。あまりに過酷な毎日に病み、疲れ、タバコや酒が過ぎて、心筋梗塞を起こしたようなのだ。記事は、その方向でまとめられ、1月11日(火)夕方に「校了」となった。夜から印刷がはじまる。そして「1日半」が過ぎた13日(木)が発売日なのだが……。
「キミ、まだ知らないのか。あれは……」
11日(火)の夕方、校了となり、編集部は休みに入った。その夜、松田宏デスク(1940〜2018、のちの編集長)は、自民党の大物議員やほかの関係者と、赤坂の料理屋で会っていた。
松田デスクは大物議員とは古くからの知友で、時々会っては、ざっくばらんに政界の裏話などを聞いて、いわゆる“ネタ探し”のお世話になっている仲だった。以下は、その松田デスクが、生前に語っていた“ドキュメント”である。
乾杯も早々に、松田デスクが「さっき校了にしてきましたが、今週は、中川一郎さん急死の取材で、たいへんでしたよ」と話を向けると、大物議員は、「キミのところは、どういう記事にしたんだい?」と聞いた。「まあ、中川さんの健康管理の話が中心です」。すると議員は、こう言った――「キミ、まだ知らないのか。あれは、首つり自殺なんだよ。もうすぐマスコミも察知して、動きはじめるはずだぞ」。
松田デスクは、一瞬で酔いが醒め、青くなった。「こりゃ、まずいな」と思ったという。おそらく明日(水)には、おおやけになって、日本中が大騒ぎになる。週刊新潮の発売は木曜日だ。それまでに、さらに詳しい情報が出るにちがいない。記事タイトルは《予測された「突然の死」》となっているので、これだけ見たら、自殺報道を取り込んだ記事のようにも見える。だが、読んでみれば、まったく見当はずれの内容であることは、明らかだ。
松田デスクは、すぐに店の帳場から、山田彦彌編集長の自宅へ電話を入れた(いうまでもないが、当時は、ケータイもスマホもない)。
「ヒコヤさん、とりあえず、印刷を止めたほうが、いいんじゃないですか」。まだ印刷がはじまったばかりの時間帯のはずだ。ヒコヤさんは「よしわかった。松っちゃん、すぐ大日本(印刷)へ飛んでくれ。おれもすぐに行くから」。
その場でヒコヤさんは、編集部の進行担当N氏の自宅へ電話を入れ、印刷をストップさせるよう、指示を出した。松田デスクは、大物議員に中座する非礼を詫び、すぐに市ヶ谷の大日本印刷の工場へ向かった。20時ころのことだったという。
大日本印刷の現場には、同社の営業担当者のほか、急きょ、呼びもどされた文選工のベテラン職人さんが2人、控えていた。この時期、まだ印刷業界には、むかしながらの「活字」が残っていた。職人さんが、一文字ずつ活字を拾って、誌面を手作業で組み上げていくのである。
つい数時間前に校了を終えたばかりの職人さんは、おそらく帰宅していたか、あるいは市ヶ谷あたりで気持ちよくイッパイやっていたかもしれない。それだけに、頭に鉢巻きを巻いて、明らかに不機嫌そうな顔つきだったという。
松田デスクとヒコヤさん、進行担当Nさんたちが“活字部屋”にたどり着いたのは、ほぼ同時だった。壁一面ギッシリならんだ活字箱の横に、小さな部屋があり、机と椅子がある。緊急のときは、ここで原稿を書き、その場で職人さんに、活字を組み上げてもらうのである。
このとき、ヒコヤさんは、両手に、日本酒の一升瓶と高級洋酒を抱えて入ってきた。
「これでもう、精いっぱいだよな……」
そしてヒコヤさんは、職人さんに向かって、土下座せんばかりに、「申し訳ありません! なんとかお願いします!」と頭を下げ、それらの瓶を、机のうえに、ガン! と置いた。実は、こういうときのために、編集部には、さまざまなお酒が何本もストックされていたのである。職人さんたちは、ヒコヤさんのあまりの勢いに圧倒され、とたんに表情を真摯に引き締めたという。
だが、松田デスクは、校了時のゲラ(出来上がりに近い状態の“仮誌面”)を眺めながら、頭を抱えていた。記事タイトルは、もう変えられない。当時のタイトルは手描きだったし、タイトルの入った新聞広告や電車中吊りは、もうできあがっている。
松田デスクは、すでに取材班の記者数人にも電話で連絡をとり、至急、最新情報を集めて、大日本印刷の活字部屋に電話で知らせるよう、指示を出していた。だがいかんせん、ついさっき流れ始めたばかりの話である。最新情報など、皆無だった。なかには、「どこで聞いても、そんな話、ないようですがねえ」と懐疑的な記者もいたという。
だが、情報源は、現職の自民党大物議員である。間違いはない。かといって、いつまでも最新情報を待っているわけにもいかない。なにしろ、印刷製本を途中でストップさせているのである。このままでは、配送を請け負うトラックにも影響が及び、配本〜発売が遅れる可能性もある。
結局、松田デスクは、最後の2行だけを差し替えることにした。「ヒコヤさん、これでどうですかねえ……」。
〈ところで今、中川氏の死は自殺だという話が流れてきた――。〉
ここは、当初(正確な文章は、いまでは不明だが)〈政治家は、生と死の紙一重の間をさまよう〉といったニュアンスの結びだったという。
ヒコヤさんは、この新しい2行を確認し、「そうだな。いまはもう、これで精いっぱいだよな。これでいこう。松っちゃん、ありがとう」とOKを出した。そして、営業担当者や職人さんたちに向かって「これでお願いします」と頭を下げた。関係者が活字部屋に集まってから、30分とたっていなかった。そして、あっという間に2行が組み直され、すぐに刷版にまわされ、印刷は再開した。
週刊誌報道の金字塔
正確な部数は不明だが、この週の週刊新潮の8〜9割が、この2行差し替えヴァージョンで発売されたようだ。もちろん、発売日の木曜日には、中川代議士の死因がホテル室内での首つり自殺だったことは、すでに大ニュースとなっていた。
翌週、週刊新潮は、またもや“大反撃”に出た。実際の中川代議士の最期は、どうだったのか、自殺の原因は、何だったのか。微に入り細を穿った記事が展開していた。特に、すべてを知っていた秘書の鈴木宗男氏(現・参議院議員)を取材班は執拗に追いかけ、ついに、全容詳細を聞き出していた。
中川代議士は、すでにパーティー直後、汗びっしょりだったという。ホテル自室内でウイスキーの水割りを3杯呑み、「オレはもうダメだ」と口にして睡眠薬を飲んで8時過ぎにベッドに入った。夫人は隣りのつづき部屋だった。そして翌朝、
〈「午前七時十分か十五分ごろだと思います。ぐっすり寝ていたところに、ドアをドンドンたたかれましたのであけますと夫人が立っていて、“鈴木クン来てちょうだい、大変です”と叫んでいらっしゃるんです。すぐ、代議士の部屋に行ったら代議士の姿が見えない。私はすぐ浴室をのぞいたんです。そのときの状況はちょっと話すことができません(注:記事では、別途説明あり)。とにかく、代議士の体を下ろしたのは私です。」〉(鈴木宗男氏の証言)
その後、遺体の状況や、部屋に駆けつけた医師の証言、かつぎ込まれた救急病院の医師の証言がつづく。さらには警察署長や医師との間で、いかにして死因を隠し、ニセの診断書を発表したかの“工作”の模様も、細かく描かれた。そのほか、自殺の原因となったと噂される“裏切り政治家”たちの“弁解コメント”も続々登場する。総裁選資金の“借金地獄”、すでに前年暮れにも自殺を考えていた……かつて「週刊新潮が歩いた(取材した)あとには、ペンペン草も生えない」といわれたものだが、それを証明するような、まさに週刊誌報道の金字塔ともいうべき記事が展開した。
それが、《中川一郎代議士を2度も自殺に追い込んだのは「金」だ》と題する、渾身の6ページである(1983年1月27日号)。前回にも登場した、元週刊新潮記者、Aさんの回想。
「三越事件も、中川一郎自殺騒動も、どちらも校了後に事態が“変化”し、発売日の木曜日には、あてがはずれた記事を読者の前に見せることになってしまいました。いまでしたら、連携するネットニュースで、いつでも最新情報に切り替えられますが、当時は、そうはいきません。週に一度、〈紙〉で伝えるしかチャンスがないだけに、木曜日の発売までを、ビクビクして過ごしたものでした。しかし、ハズレたとしても、翌週には、その悔しさをバネにして、さらにすごい記事をつくりあげたものでした」
毎週火曜日の夕方から1日半後の木曜日は、まさに「魔の木曜日」だったのである。
【第1回は「数多の週刊誌記者が頭を抱えた『発売日の悪夢』…記事が印刷された後に“事態が急変”したら」】
森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。
デイリー新潮編集部
