「哲学する」のは何のため?──戸谷洋志さんと読む、ヤスパース『哲学入門』#1【NHK100分de名著】
哲学すべきは自分の人生──ヤスパース『哲学入門』を、戸谷洋志さんが解説 #1
哲学は挫折から始まり、人生は他者との交わりから再び立ち上がる──。
2026年2月のNHK『100分de名著』では、20世紀最高峰の哲学者・ヤスパースの隠れた超ロングセラー『哲学入門』を、哲学者であり立命館大学大学院准教授の戸谷洋志さんが紹介します。
ナチス政権下のドイツで哲学の教授をしていたヤスパースは、第二次世界大戦後のラジオ講演で「哲学すること」の意義を説きました。その講演をまとめた『哲学入門』には、ヤスパースの多年にわたる思索のエッセンスが凝縮されています。
「当たり前」を問い直すために
今回ご紹介する『哲学入門』は、ドイツの哲学者カール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers 一八八三~一九六九)の著作です。
この本は、ラジオで放送された教養番組をもとにしています。ヤスパースの他の著作に比べると、一般の読者を想定して書かれ、読みやすい文体であることが特徴です。長年にわたって愛読されている『哲学入門』には、二〇世紀における最高峰の哲学者として知られる彼の思想のエッセンスが凝縮されています。
ヤスパースは一八八三年に、ドイツのオルデンブルクという町に生まれました。精神科医になったのち、哲学へと転向し、その生涯において多くの大著を残しています。
彼の著作の特徴といえば、なんといってもその健筆(けんぴつ)ぶりです。主著の多くは一〇〇〇ページ以上。今日で言う「鈍器本」とでも呼べる本を大量に残しました。それらに比べれば『哲学入門』のコンパクトさは、異例という他ありません。
しかし、コンパクトだからと侮るなかれ。そこにはヤスパースらしい深遠な世界が広がっています。
「哲学入門」という名前を聞くと、どんな本を想像されるでしょうか。おそらく多くの人は、古代ギリシャから現代まで、有名な哲学者が次々と紹介されていくようなものを想像するのではないでしょうか。
しかし、この本はそうしたものではありません。むしろそこで語られるのは、そもそも哲学的に思考するとはどういうことなのか、という問題なのです。
『哲学入門』では何度か「哲学すること」という表現が使われます。少し奇妙な言い方のようにも思えるこの表現は、近代ドイツの哲学者イマヌエル・カントが使ったことで有名です。カントは、そもそも哲学とは、哲学者の名前や専門用語に詳しくなることではなく、それらを通じて自分の力で考えることである、と主張しました。つまり、単に知識を持っているだけでは、哲学としては不十分なのです。ヤスパースもまた、こうしたカントの思想を受け継いでいます。
それでは、哲学的に思考するとは、いったい何なのでしょうか。端的に言えば、それは「当たり前」を問い直すことです。私たちが日常において、常識としている価値観、世間を支配している空気、国の為政者(いせいしゃ)が語る言説、普段の私たちが疑うことなく受け入れている考え──それらに対して、「そもそもそれは本当に正しいのだろうか」と改めて考えることが、「哲学すること」なのです。
そうした哲学的思考はどのように行われるべきなのでしょうか。ヤスパースはその方法として、何よりも他者との対話を重視します。彼にとって哲学は、決して孤独な思索の営みではなかったのです。
もっとも、対話といっても、それはただ論理を戦わせ合うだけの抽象的な論争のようなものではありません。そうではなく、互いの人間性に対して信頼を寄せ、相手をかけがえのない個人として認めることによって成立するコミュニケーションが、哲学には必要なのです。彼は、そうした対話を可能にする関係性に、「交(まじ)わり」という特別な概念を与えています。
なぜ哲学には「交わり」が必要なのでしょうか。ヤスパースの答えはシンプルです。それは人間が一人では生きていけないからです。
私たちは、どんなときでも他者とともに存在しています。それは生活を営む場面だけではなく、何かを考えるときでも同じです。「私」が思考できるのは、「私」が考えることに価値があると信じてくれる他者がいて、その人が「私」に耳を傾けようとしてくれているときなのです。他者がいなければ、そもそも私たちには哲学的な思考などできないし、この世界で生きていくこともできません。この点で彼の思想は、人間存在にとっての他者との関係性を非常に重視するものである、と言えます。
混迷を極める現代社会を生きる私たちが、互いに支え合いながら、「当たり前」を問い直すためには、どうしたらよいのか──。私たちは、こうした問いを携えながら、『哲学入門』に迫っていくことにしましょう。
最後に、一番大切なことをお伝えしたいと思います。それは、このテキストをどうか、ただ受動的に読まないでほしいということです。つまり、「あー、ヤスパースという人は、こんなことを言っていたんだな」という風に、単なる知識の一つとして、受け取らないでほしいのです。
そうではなくて、ここに書かれていることを、あなた自身の人生と結びつけながら、理解していっていただきたいのです。あなたがこれまで出会ってきた人々の面影や、大切な人との思い出、幸福だった瞬間、挫折を味わった出来事、そうしたことを、一つ一つ思い起こしながら、それらを通して、理解を深めてほしいのです。
なぜなら、それこそが、ヤスパースの考える哲学だからです。主役はあなたです。あなたが哲学的に思考するべきことは、他ならぬあなた自身の人生以外にありません。それが一番大切なことなのです。『哲学入門』も、あるいはそれを解説するこのテキストも、そのお手伝いをするものに過ぎません。
『100分de名著』テキストでは、「哲学とはどんな営みか?」「他者との交わり」「世界像は多様である」「「包括者」とは何か?」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著としてハンナ・アーレント『人間の条件』を紹介しています。
講師戸谷洋志(とや・ひろし)
哲学者、立命館大学大学院准教授
1988年、東京都生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。専門は哲学、倫理学。法政大学文学部哲学科卒業後、大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。著書に『ハンス・ヨナスの哲学』(角川ソフィア文庫)、『哲学のはじまり』(NHK出版)、『メタバースの哲学』(講談社)、『責任と物語』(春秋社)、『詭弁と論破 対立を生みだす仕組みを哲学する』(朝日新書)など。2015年「原子力をめぐる哲学 ドイツ現代思想を中心に」で第31回暁烏敏賞、『原子力の哲学』(集英社新書)でエネルギーフォーラム賞優秀賞を受賞。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 ヤスパース『哲学入門』2026年2月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※ 本書における引用は、ヤスパース『哲学入門』(草薙正夫訳、新潮文庫、改版)に拠ります。また、読みやすさを鑑み、引用の一部にルビの加除をしています。
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