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一度は憧れるイタリアの名門ブランド

カーマニアの間でよく言われることの1つに、真の自動車愛好家なら誰もが一度はアルファ・ロメオを所有したことがあるか、少なくとも所有したいと願っている、というものがある。

【画像】アルファ・ロメオ最新スーパーカーはやはり美しかった!【新型33ストラダーレを詳しく見る】 全20枚

アルファはミラノで創業した。現在の本拠地であるトリノから160kmも離れていない場所だ。正確な創業日は1910年6月24日だが、後述するようにアルファ・ロメオの物語は実際にはそれより少し前に始まっている。この名門メーカーを、最も有名なモデルを通して見ていこう。


アルファ・ロメオの設立から現在までの歴史を写真とともに振り返る。

ダラックとの繋がり

現在アルファ・ロメオとして知られる会社は、1906年に設立されたS.A.I.D.から生まれた。S.A.I.D.はフランスのダラック車をイタリアで販売するために立ち上げられた会社だが、1909年までに経営難に陥り、経営陣は新らしい試みとして自社での自動車生産に踏み切った。

新会社には『ロンバルダ自動車製造株式会社(Anonima Lombarda Fabbrica Automobili)』という説明的な名称が与えられ、便宜上、その頭文字を取ってA.L.F.A.と呼ばれるようになった。


ダラックとの繋がり

ロゴ

A.L.F.A.のロゴはロマーノ・カッタネオ氏がデザインした。その後何度か改訂されたが、今も2つの要素が一貫して残されている。ミラノを象徴する赤い十字と、1447年まで同市を支配したヴィスコンティ家の紋章から採られた蛇(ビショーネ)である。


ロゴ

24 HP

A.L.F.A.は、元フィアット社員のジュゼッペ・メロージ氏を主任技師として採用した。メロージ氏は同社初のモデル、4.1Lエンジンを搭載した4人乗りの24 HP(写真)を設計し、そのすぐ後に小型の12 HPも投入した。24 HPの生産は1914年まで続いた。ちなみにメロージ氏は1923年まで同職に就いていた。

1911年のタルガ・フローリオには2台の24 HPがエントリーしたが、約145kmの公道コースの最終3周目で両車ともリタイアしてしまう。1台はニーノ・フランキーニ氏のクラッシュによるもので、もう1台はウーゴ・ロンゾーニ氏の疲労によるものだった。


24 HP

ニコラ・ロメオ氏

1915年、実業家ニコラ・ロメオ氏がA.L.F.A.の経営権を取得。第一次大戦中は軍需品の製造に従事した。ロメオ氏は間もなく会社の全権を手中に収め、1918年2月には彼の名誉を称えて社名を現在のアルファ・ロメオに変更した。

ロメオ氏は1928年に会社を去り、10年後に62歳で亡くなったが、今も社名やミラノを含むイタリア各都市の通りにその名が刻まれている。


ニコラ・ロメオ氏

20-30 HP

1914年に登場した20-30 HPは、初代24 HPを発展させたモデルだ。第一次世界大戦により生産が中断されたため、多くの車両は1920年になってようやく完成した。

20-30 HPのスポーツバージョンは、アルファ・ロメオの名称を冠した初のモデルとなった。


20-30 HP

RL

アルファ・ロメオRLは1922年から5年間生産されたモデルで、ノルマーレ、トゥリズモ、スポルト、スーペル・スポルト(写真)の4グレードが存在する。

これらに加え、タルガ・フローリオに因んで名付けられた、より軽量で高出力のレース仕様車も複数生産された。ドライバーの中には、かのエンツォ・フェラーリ氏もおり、1923年6月のラヴェンナ大会で主要レースを制している。


RL

四つ葉のクローバー

1923年のタルガ・フローリオで幸運を呼び込むため、アルファ・ロメオのレーシングドライバー、ウーゴ・シヴォッチ氏は自身のRLに四つ葉のクローバーを描いた。効果はあったようで、レースで見事に優勝をおさめた。しかし、シヴォッチ氏はモンツァで別のマシン(クローバーは描かれていなかった)の練習中に亡くなった。

四つ葉のクローバー(クアドリフォリオ)は、その後シヴォッチ氏を称えてアルファ・ロメオのレーシングカーに描かれるようになった。このロゴは1960年代初頭に市販の高性能モデルにも使用され始めた。


四つ葉のクローバー

6Cシリーズ

1927年、RLの後継として6気筒エンジンを搭載したスポーツモデル、6Cシリーズがデビューした。ジュゼッペ・カンパーリ氏は1928年、レース仕様車でミッレミリアを制した。その後、複数のエンジンサイズと、主に独立系コーチビルダーが手掛けた多様なボディスタイルを備えた市販モデルが登場している。

1933年、アルファ・ロメオは深刻な財政難に陥り、イタリア産業復興公社の管理下に入ったが、翌1934年には新型の6Cを発売した。その後継モデルは1938年から1952年まで生産された。


6Cシリーズ

8Cシリーズ

6Cと同様に、8Cはヴィットリオ・ヤーノ氏設計の8気筒エンジンを搭載し、さまざまなロードカーおよびレース仕様が用意され、1930年代を通じて生産された。

流線型の8Cクーペ(写真)は、1938年のル・マン24時間レースで、信じがたいことに14周差で首位を独走していたが、ゴール2時間前にエンジントラブルでリタイアしてしまった。


8Cシリーズ

有名な勝利

アルファ・ロメオの1932年型グランプリカーは、ティーポBまたはP3として知られる。当初は大きな成功をおさめたが、1934年に技術的に優位なメルセデスとアウトウニオンのマシン(通称シルバーアロー)が登場すると、苦しい戦いを強いられるようになる。

それでも1935年のドイツGPでは、タツィオ・ヌヴォラーリ氏がニュルブルクリンクの悪天候の中P3を駆り、おそらく自身のキャリアで最高の成果を残した。出遅れと致命的な給油トラブルから挽回し、ヌヴォラーリ氏は8台のシルバーアローを抑えてチェッカーフラッグを受けたのだ。これには観戦していたナチス高官たちも憤慨したという。


有名な勝利

最後の6C

最終型6Cは、シリーズ最大の2.5Lエンジンを搭載して1938年に登場した。シャシーは3サイズ用意され、最長のものは2500スーペル・スポルト(写真)に採用された。

アルファ・ロメオにとって6Cは第二次世界大戦前最後のモデルであると同時に、戦後初の量産車でもあり、1952年まで販売が続いた。


最後の6C

1900

戦後初のアルファ・ロメオ設計となった1900は、従来モデルと異なり、ライン生産方式と、ボディとシャシーが一体化したモノコック構造を採用した点が特徴だ。

従来よりも広い市場をターゲットとした1900はかなりの成功を収め、1950年から1959年にかけて2万台以上が生産された。


1900

世界チャンピオン

F1世界選手権は1950年に創設された。アルファ・ロメオはたちまちF1を席巻し、7戦中6戦で優勝した。ジュゼッペ・ファリーナ氏がその年のタイトルを獲得し、続いてファン・マヌエル・ファンジオ氏が別のマシンで活躍した。

ファンジオ氏のマシンは159アルフェッタで、1937年に設計されたファリーナ氏の158の派生である。アルファ・ロメオは1951年シーズン終了時に一時的にF1から撤退した。その後復帰したものの、1950年代初頭に享受したような成功には至らなかった。


世界チャンピオン

ディスコ・ヴォランテ

正式名称1900 C52のディスコ・ヴォランテ(「空飛ぶ円盤」の意)は実験的なスポーツレーシングカーで、1952年から1953年にかけてわずか5台が生産された。機械部品の一部は1900から流用されているが、スペースフレームシャシーと驚異的な空力性能を持つボディは、ミラノのカロッツェリア・トゥーリングとの共同開発によるものだ。

アルファ・ロメオとトゥーリングの協力関係は続き、8Cコンペティツィオーネをベースにした新型のディスコ・ヴォランテが2013年に発表された。3年後にはコンバーチブル版も登場した。


ディスコ・ヴォランテ

ジュリエッタ

アルファ・ロメオはこれまでにジュリエッタという名称を3度使用している。最初のモデルは1954年から1965年まで生産され、セダン、クーペ(写真)、ロードスターに加え、プロミスクアと呼ばれる極めて稀なステーションワゴンがラインナップされていた。

ほとんどのバージョンで1.3Lツインカムエンジンを搭載し、公道仕様では最大100psを発生。レース仕様では120psに達した。1961年にジュリエッタの生産は10万台を突破し、総生産台数は17万台を超えたとされている。


ジュリエッタ

フレンチ・コネクション(フランスとの関係)

初期のダラック社との提携を彷彿とさせる形で、アルファ・ロメオは1959年からイタリアでルノー・ドーフィン(写真)、1962年からはルノー4のライセンス生産を行った。両モデルの生産は1964年に終了した。

ドーフィンの後継車であるルノー8は、アルファ・ロメオのティーポ103というプロトタイプと酷似していた。しかし、両車は機械的にまったく無関係であり(特にエンジン配置が異なる)、ティーポ103は量産化されなかった。


フレンチ・コネクション(フランスとの関係)

ジュリア・セダン

1962年から1977年まで生産された初代ジュリアのセダン(タイプ105)は、箱型のボディとは裏腹に優れた空力性能を備えている。

ほぼすべてのバージョンで1.3Lまたは1.6Lのガソリンエンジンを搭載しているが、1976年に登場した後期型はアルファ・ロメオ初のディーゼル乗用車となった。


ジュリア・セダン

ジュリア・クーペ

1963年には、ジュリア・セダンのプラットフォームを短縮した、クーペシリーズが発売された。エンジン排気量は1.3Lから2.0Lまで幅広く、モデル名には「GT」の文字を含むものが多かった。

アルファ・ロメオのモータースポーツ部門アウトデルタは、レース専用設計のGTAm(写真)を生産した。オランダ人ドライバー、トイン・ヘゼマンス氏は1970年、このマシンで欧州ツーリングカー選手権を制した。


ジュリア・クーペ

2600

1962年から1968年まで生産された2600は、前身の2000を発展させたもので、アルファ・ロメオの6気筒エンジン搭載車の最後を飾った。

セダンは自社ボディ、スパイダー(写真)とクーペはそれぞれトゥーリングとベルトーネのボディを採用した。全体的に2600は大きな成功を収めることはできず、直接の後継車も登場していない。


2600

スパイダー

ジュリアをベースにした各バリエーションの中で、最も長く生産されたのはスパイダーだ。ピニンファリーナがデザインを手掛け、1966年に発売。翌年公開の映画『卒業』ではダスティン・ホフマンが運転した(V8エンジンの音に置き換えられていた)。

発売初年度にこのような宣伝効果を得られるのは、メーカーにとって夢のような話だろう。しかし、アルファ・ロメオ自身も、1993年まで(何度か改良を加えつつ)生産し続けることになるとは予想していなかったはずだ。


スパイダー

33ストラダーレ

これはスポーツレーサーであるティーポ33の公道仕様車であり、「ストラダーレ」とはイタリア語で「公道」を意味する。バタフライドアと2.0L V8エンジンを備え、最高出力は230psに達する。レース仕様との出力差はわずか40psほどだ。

1967年末から1969年初頭にかけてわずか18台が生産された。現存する車両は800万ポンド(約16億円)以上の価値があると推定されている。


33ストラダーレ

(翻訳者注:この記事は「後編」へと続きます。)