【べらぼう】史実では異なる佐野政言の切腹。世直大明神の「辞世の句」や社会的影響を紹介
天明4年(1784年)3月24日、江戸城内で若年寄の田沼意知(宮沢氷魚)を斬った佐野政言(矢本悠馬)。斬られた意知は重傷を負い、4月2日に息絶えてしまいました。
そのため政言は切腹を命じられ、4月3日に世を去ることとなります。
【べらぼう】なぜ佐野政言は田沼意知を斬ったのか?史実資料から実際の犯行の動機を解説

今回は佐野政言がどのように切腹したのか、その後の影響についても紹介しましょう。
佐野政言の最期

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」公式サイトより。
『田沼実秘録』や『佐野田沼始末』などの記録では、佐野政言が切腹する様子が描かれていました。
切腹と言えば文字通り「自分の腹を切って絶命する」刑罰ですが、当時は形式的なものとなっており、実際に腹を切ることはほとんどなかったそうです。
切腹人(受刑者)が三方に置かれた木刀または扇子に手を伸ばしたところで、介錯人(斬首執行人)が首を斬るのが通例となっていました。
これは刃物を手にとらせることで恐怖心からパニックを起こしたり、逃亡を図るなど暴挙に及んだりするリスクを考慮したのでしょう。
しかし政言は切腹の当日、真剣で腹を切らせるようにしつこく要求したそうです。
「武士が命を絶つ時は、この手で腹を切りとう存ずる」とか何とか。
どうせ死ぬなら同じこととは思いますが、もしかしたら自分の手で意知を斬り切れなかった(トドメを刺せなかった)憤懣を、自身にぶつけたかったのかも知れません。
「……佐野はあぁ申しておりますが……」
「申し分は解らぬでもないし、武士として至極もっともではあるが……」
万が一、刃物を手にした政言が暴れ出したら、対処次第では自分たちも罰せられかねません。
※3月24日の刃傷沙汰においては、関係者らがそれぞれ処分されています。
それでもあまりにうるさかったのか、当局は政言の望みを叶えてやることにしました。
「どうか刃物を!武士の情けを!」
「……然らば、どうぞ」
三方の上には、確かに刃物が載っています。しかし少し離れたところに置かれます。
(何だ、取りにくいな……)
政言が刃物を取ろうと身を乗り出した瞬間、たちまち首が斬り落とされたのでした。享年28歳。
佐野政言の辞世?

卯の花(ウツギ)。まさにこの時期が見ごろ(イメージ)
幕府の記録によれば、佐野政言が切腹の場で辞世を詠んだ様子はありません。
しかし世の中には政言の辞世とされる歌が伝わっており、そのいくつかを見てみましょう。
卯の花の 盛りもまたで(待たで) 死手の旅 道しるべを 山時鳥(ヤマホトトギス)
※『営中刃傷記』など
卯の花の 盛(さかり)を捨(すて)て 死出の旅 山時鳥 道しるべせよ
※『鼠璞十種(そはくじっしゅ)』など
【歌意】ウツギの花盛りを待たず、死出の旅に発つこととなった。山で啼くホトトギスが、旅の道しるべとなるだろう。
卯の花は卯月(うづき。旧暦4月)の由来ともなる花で、4月が始まったばかりの3日に世を去る政言が「花盛りを待ちたかった」と名残を惜しんだのでしょうか。
ホトトギスは不如帰(帰るに如かず=帰りたい)とも書く通り、もう二度と戻れない≒死を象徴する鳥とも言われています。また血を吐きながら啼くという俗信もあり、合わせて死を思わせたことでしょう。
他にも佐野家の菩提寺である徳本寺(東京都台東区)では政言の辞世と伝わる文書が遺っていたそうです。
こと人(異人)に 阿らて(あらで)御国の 友とちた たかい(血戦い)すつる(捨つる) 身はゐさきよし(潔し)
【歌意】他ならぬ御国の友(田沼意知?)と血戦に及び、命を捨てる姿は、実に潔いものである。
※御国の友:不明確ながら、同じ下野国の佐野一族つながりを意味しているのかも知れません。
内容からすると、政言自身が詠んだというより、誰かがその義挙?を讃えて詠んだのではないでしょうか。
ちなみにこの辞世?は鏡文字(鏡に映すと正しく読めるよう、反転させて書いた文字)で書かれているそうで、何だか不気味ですね。
佐野政言の葬儀と社会的影響

『黒白水鏡』より、人々に祀られた世直大明神。
切腹して果てた佐野政言の葬儀は4月5日、佐野家の菩提寺である徳本寺で執り行われました。戒名は元良印釈以貞居士(がんりょういん しゃくいていこじ)。
しかし両親をはじめ遺族たちは謹慎を申しつけられていたため、誰も参列できません。
代わりに多くの見物人が押しかけたそうで、寺の山門に「佐野大明神」と書いた紙を貼りつける者もいたそうです。
にっくき田沼の跡取りを葬ったことで、世直しが行われる期待を込めたのでしょうか。
こうした動きが思わぬ事態を招くことを警戒して、当局は寺社奉行や同心を配置したそうです。
やがて田沼政権が窮民対策として仕入れた米が江戸に到着したため、米の価格は一時下落。さすがは世直し大明神様……と人々は賞賛しましたが、しばらくすると米の価格は再び上昇したと言います。
政言が意知を斬った刀が粟田口忠綱(あわたぐち ただつな。一説には粟田口保光)であったことから、同作の人気が高まり、価格が上昇しました。
また刃傷事件をモデルとした作品が世に出され、例えば黄表紙『黒白水鏡(こくびゃく みずかがみ)』や浄瑠璃・歌舞伎「有職鎌倉山(ゆうそく かまくらやま)」など、田沼騒動物と呼ばれるジャンルが確立していきます。
世の人々は田沼憎しもあって政言に同情し、多くの者が徳本寺に参詣。その墓前には線香の煙が絶えませんでした。
終わりに

田沼意知に斬りかかる佐野政言。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」公式サイトより。
刃傷事件を起こしてしまった佐野家は改易(所領没収)となり、家屋敷も没収されてしまいます。しかし政言の遺産については遺族への相続が認められました。
血縁者の連帯責任は問われなかったものの、男児も兄弟もいなかかったため、佐野家は断絶してしまいます。
その後も佐野家を再興させる動きは何度かあったものの、結局ならぬままに武士の世は終焉を迎えたのでした。
政言
源之助 善左衛門 母は某氏。安永二年八月二十二日家を継、十二月二十二日はじめて浚明院殿に拝謁す。六年二月七日大番となり、七年六月五日新番にうつる。天明四年三月二十四日営中にをいて田沼山城守意知を傷け、意知これがために死するにより、四月三日切腹せしめらる。妻は村上肥前守義方が女。
家紋 丸に剣木瓜 丸に左の古文字
※『寛政重脩諸家譜』巻第八百五十二 藤原氏(秀郷流)佐野
今回は江戸城中で田沼意知を斬った佐野政言の最期について紹介してきました。
私怨からの乱心として処理されたものの、人々からは「世直し大明神」として持て囃された今回の刃傷事件は、田沼政権の没落を象徴する出来事となったのです。
※参考文献:
『史学 第57巻4号』慶應義塾大学三田史学会、1988年3月『寛政重脩諸家譜 第5輯』国立国会図書館デジタルコレクション中江克己『徳川将軍百話』河出書房新社、1998年3月
