マセラティとブガッティを経た大物移籍 ランボルギーニを牽引した男:マウリツィオ・レッジャーニ(1)
スーパーカーの巨大勢力があるイタリア
イタリアのスーパーカーには、いくつかの巨大勢力があることはご存知の通り。ただし、お互いに近い距離にあり、完全に分断されてきたわけではない。
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北部のエミリア・ロマーニャ州には、フェラーリとランボルギーニだけでなく、パガーニも拠点を置く。マセラティMC20とダラーラ・ストラダーレの生産工場も位置する。自動車業界で最もエキサイティングな話題の多くは、小さなエリアから発信されている。

ランボルギーニを牽引した1人、マウリツィオ・レッジャーニ氏
マウリツィオ・レッジャーニ氏は、その中心で手腕を発揮してきた1人。今年で64歳になる技術者は、2023年末をもってランボルギーニのモータースポーツ部門から一線を退くという。それ以前には技術部門へ属し、最高技術責任者に就いた期間もあった。
彼がランボルギーニの一員へ加わったのは1995年。その頃の年間生産数は約200台で、従業員も200人以下だった。それが2022年では、年間9000台まで成長。スタッフも2000名へ増えている。
彼の自動車業界への貢献が認められ、2023年初頭にボローニャ大学から機械工学の名誉博士号が授与された。以前に同じ栄誉を与えられたのが、エンツォ・フェラーリ氏。62年も昔のことだが。
これを称えるべく、理解あるランボルギーニ・オーナーなどのご協力をいただき、モデナ近郊のカントリーハウスで小さなミーティングを開くことにした。彼が関わった、歴代の代表的モデルを揃えて。
マセラティからブガッティの再生へ
レッジャーニは大学を卒業すると、マセラティのエンジン開発部門へ就職。最初に取り組んだのが、マセラティ・ビトルボだった。
V6ツインターボエンジンを搭載していたが、キャブレーターで燃料が供給されており、高温時にはガソリンが気化してしまうベーパーロック現象が頻発した。これを解消するため、マニエッティ・マレリ社製の燃料噴射システムへ置換したのが彼だった。

マセラティ・ビトルボ(1981〜1994年/欧州仕様)
「わたしが問題を解決できると、証明できた案件でした」。レッジャーニが振り返る。
マセラティでの仕事は比較的安定していたが、新しい挑戦は殆どなかった。そこで5年後、転職を志す。すぐに新しい会社から声がかかったが、どこで働くのか当初は明かされなかったという。
「ターボの専門家を求めていましたが、重要な歴史的ブランド、だとしか伝えられませんでした。名前を教えてもらえなければ興味はありません、とお答えしました」
「しばらくして、ランボルギーニの技術者も務めた、パオロ・スタンツァーニ氏から電話があったんです。面識がなかったので、直接連絡があったことには驚きましたよ。来てもらえないだろうか。わたしを信じて欲しい。彼は、そう話しました」
レッジャーニが転職した先は、ロマーノ・アルティオーリ氏がスタートさせた、ブガッティ・ブランドの再生プロジェクト。2人目のスタッフだった。世界で最も速くエキサイティングなスーパーカーの発売を目指していると知ったのは、働き始めてからだった。
EB110のV12クワッドターボを経てランボへ
「そこは、自分にとって本当の意味での学校でした」。貴重なブガッティEB110のエンジンルームを眺めながら、レッジャーニが口にする。歴代のランボルギーニが停まっていても、その存在感は圧倒的だ。
「完全な白紙からのスタート。すべて、初めてのことばかりでした」。彼が主導したのは、新しいパワートレインの開発。60バルブのV型12気筒エンジンに、クワッドターボをドッキングするアイデアが進められた。

ブガッティEB110(1991〜1995年/欧州仕様)
コンパクトに仕上げるため、クランクシャフトと並行してトランスミッションが組まれることになった。しかも、1つの鋳造ケースの中へ。新開発となる、四輪駆動システムも盛り込まれた。
発売は1991年。最高出力は560psで、狙い通り世界最強の公道用モデルという称号を獲得した。だが、1992年にマクラーレンF1がその座を奪っている。
「とても小さなグループで、不可能なことを理解できないほど若かったですね。アイデアを考え、実作し、試験し、不具合を解決するというプロセスが、あれほど迅速に進んだ場所は、これまでも経験したことがありません。研究室のようでした」
ブガッティが目指す高みは、市場が欲する台数を遥かに超えていた。経営は厳しく、破綻直前の1995年に彼は次のステップへ踏み出す。フェラーリからF1用エンジン開発のオファーを受けたそうだが、最終的にランボルギーニを選んだ。
アウディによる買収のきっかけを創出
最初に関わったのが、ディアブロの後継モデルに据えられつつ、完成に至らなかったカント。その頃はプロジェクト147と呼ばれていた。ところが、インドネシア人がオーナーだったランボルギーニもまた、経営状態は芳しくなかった。
「ブガッティとは、まるで反対でした。既に存在するものを利用する必要がありました。お金もリソースもありませんでしたね。最小限から、最大限を生み出すことが求められたんです」

ランボルギーニ・ディアブロとマウリツィオ・レッジャーニ氏
レッジャーニは、ひと回り小さい新モデルの開発にも関与。直接的には実らなかったものの、その後のランボルギーニの運命を一変させることになった。
「コストを考えると、既存のパワートレインを利用することになります。そこで選択肢を探しました。BMWやフォードも考えましたが、四輪駆動であることを考え、アウディA8へ搭載されていた、4.2Lユニットが最適だと判断したんです。180度回転させて」
「ドイツ・インゴルシュタットへ赴き、アウディのCEOだったフランツ・ヨーゼフ・パフゲン氏へお会いし、交渉しました」。レッジャーニが笑みを浮かべる。
果たして、アウディはそのプロジェクトへ関心を抱いた。傘下とするフォルクスワーゲン・グループのトップ、フェルディナント・ピエヒ氏まで議題は登り、示された提案はランボルギーニの買収という内容だった。
この続きは、ランボルギーニを牽引した男:マウリツィオ・レッジャーニ(2)にて。
