日韓「政治決着」で葬られた謎の拉致事件
■突然背後から襲われて
東京都心のホテルで、それは白昼堂々実行されました。1973年8月8日、当時韓国の野党指導者だった金大中(キム・デジュン)は、千代田区飯田橋にあるホテルグランドパレスで、複数の男たちに拉致されたのです。
金大中は、病気療養のため日本に滞在していた韓国の野党指導者、梁一東(ヤン・イルトン)と、同ホテルの2212号室で会食していました。会食を終えた金大中が部屋を出て、廊下を歩いていると、突然2210号室から出てきた男たちに背後から襲われ、部屋の中に引きずり込まれました。そして、麻酔薬のクロロホルムを嗅がされ、意識を失います。ほんの一瞬の出来事でした。
金大中はホテルから担ぎ出され、車で神戸のアジトまで運ばれました。翌9日朝、大阪港から偽装貨物船「龍金号」に乗せられます。船中で金大中は両足に錘(おもり)を付けられます。本人の証言によると、海に投げ込まれる寸前のところで、謎のヘリまたは飛行機が照明弾を投下して警告したために助かったとのことです。金大中は拉致から5日後に、ソウルの自宅付近で解放されました。
いったい誰がこんなことをしたのでしょうか。
■33年後に国家機関の関与を認めた韓国政府
ホテルグランドパレスの犯行現場から、韓国駐日大使館の金東雲(キム・ドンウン、本名は金炳賛)一等書記官の指紋が発見されるなど、この事件は発覚当初から韓国の国家機関の関与が疑われていました。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2006年、韓国国家情報院の真相調査委員会が発表した報告書(*1)によると、事件は韓国情報機関の中央情報部(KCIA)部長であった李厚洛(イ・フラク)が、直接指示を下した国家的犯罪であり、当時の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領自身の指示についても、「直接指示の可能性を排することができず、少なくとも暗黙のうえでの承認はあったと判断される」ものでした。
金大中は民主化運動の旗手でした。金大中は全羅道の木浦商業学校卒業後、海運会社経営を経て、29歳(1954年)の総選挙で立候補するも落選。1959年、1960年と続けて落選し、ようやく1961年に補欠選挙で国会議員に初当選します。このときの当選は朴正煕による軍事クーデターによって無効となりますが、1963年の総選挙でふたたび当選し、野党の指導者として頭角を現しはじめます。
朴正煕大統領の独裁に反対し、金大中は1971年の韓国大統領選挙に立候補します。朴ら軍事政権は当初、金大中を甘く見ていましたが、投票結果は朴正熙(民主共和党)が643万2828票(得票率53.2%)、金大中(新民党)539万5900票(45.3%)で、朴の辛勝でした。しかも、不正や不法が半ば公然と行われていた状況下での辛勝です。朴正煕や政権中枢部は、金大中らの民主化運動を脅威と感じはじめます。
大統領選の直後、金大中の乗る車に大型トラックが突っ込む事故が起きました。金大中は奇跡的に助かりましたが、股関節を負傷。このときのケガで、以後まっすぐ歩けなくなりました。事故を起こしたトラック運転手や金大中のボディーガードなどが証言しており、現在では暗殺工作ではなく、偶発的な事故だとみられています(*2)。
しかし、71年にKCIAが関与した爆破事件を自宅で起こされていたこともあり、金大中はこの事故を、KCIAの暗殺工作だと考えました。以後、金大中は危険を避けるため、アメリカや日本で亡命生活を始めます。そして海外から民主化の呼び掛けを行い、国際的に「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていきます。
そうした中で朴政権は、金大中をこれ以上放置することはできないとの判断を固めていったようです。
■日本の暴力団に殺害させる計画も
当初KCIAは、日本の暴力団を使う計画を立てていたようです。2006年の真相調査委員会の報告書には、日本の暴力団に金大中の拉致や殺害を実行させる案を検討したという関係者の証言のほか、当時の韓国大使館の公使から金大中の「除去」について提案を受けたが、警察のマークが厳しく計画に参加できなかったという、在日コリアン系の暴力団組長の証言が記されています。
結局はKCIAが自ら要員を派遣し、計画が遂行されることになります。この計画は金大中のイニシャルをとって、「KT計画」と呼ばれていました。日本には当時、KCIAの要員が24人〜26人潜伏していたと言われています(東亜日報など、40人以上いたという説をとる向きもあります)。要員たちは日々、金大中を尾行し、拉致の機会をうかがっていました。金大中もそれに気付いており、2、3日ごとにホテルを変え、日本人風の偽名を使いながら、追跡を逃れていました。
KCIAは金大中が野党指導者と、ホテルグランドパレス2212号室で8月8日に会うという情報を得ます。KCIAはあらかじめ、空室となっていた2210号室をはじめとする複数の客室を予約し、犯行に使います。まさに、KCIAによる計画犯罪でした。
しかし、ここで大きな疑問にぶつかります。KCIAはなぜ、金大中をわざわざ日本で暗殺しようとしたのでしょうか。失敗すれば国際問題になるのは明白です。
金大中は当時、民主運動家として国際的な名声を得てはいましたが、政権を運営したこともなければ、金泳三のような大きな派閥を持っていたわけでもありません。「反権力・反体制」だけが売りで、政治家としての実力は未知数でした。金大中が海外で何を言おうと、朴政権には痛くもかゆくもないわけで、放っておけば済む話です。どうしても金大中を亡き者にしたいのなら、何か口実でもでっちあげて強引に韓国に帰国させ、それからことを進めてもよかったはずです。
そうした部分も含め、国の情報機関が主導したにしては、全体にずさんさが目立つ計画でした。金東雲が現場に指紋を残した件もその一つですが、もしかすると事件後に口封じのために殺されるとでも考え、わざと自分の存在を示したのかもしれません。
■目的は殺害か、それとも単なる拉致か
金大中は事件後も、大統領になった時も、この拉致事件についてあまり多くを語ろうとはしませんでした。表向きには、韓国政府に対する賠償請求などに発展するおそれがあるから、と説明しています。
偽装貨物船「龍金号」に乗せられた際、両足に錘を付けられ、海に投げ込まれるところだったという金大中の証言をもって、金大中事件は暗殺未遂事件とされています。一方で龍金号の乗組員は、金大中の言うような飛行機やヘリの接近はなかったと証言しており、それらの飛行を裏付ける資料も見つかっていません(*3)。真相調査委員会の報告書は、当初殺害案が議論されたことは事実としつつ、少なくとも拉致の実行または龍金号の日本到着以後は、拉致計画として進められたと結論づけています。
いずれにせよ、KCIAのような外国の国家機関が、白昼堂々とわが国の領土内でこのような事件を起こしたことは、日本にとっては重大な主権の侵害にあたります。しかし、日本政府は早々に事件の幕引きを図りました。
警察当局は事件の容疑者である金東雲に出頭を求めましたが、金東雲は外交特権を盾にこれを拒みます。韓国政府も引き渡しを拒否し、事件への関与を否定しました。ただ、事件直後に、韓国政府は金東雲を免職にしています。
当時の田中角栄内閣は金東雲の免職を了として、それ以上の真相究明を行いませんでした。日本の世論はこれを許さず、社会党や共産党もこの問題を追及します。日本政府は答弁に窮しながらも問題を曖昧にし、捜査を続行するふりをして、ほとぼりが冷めるのを待ったのです。
1975年7月、当時の宮沢喜一外相は訪韓し、韓国政府の「口上書」を受け取ります。金東雲の取り調べを行ったが証拠が足りず起訴には至らなかったこと、しかし公務員としてふさわしくない行動があったので懲戒免官にしたことを記したこの口上書をもって、宮澤は「(韓国の)行政当局としては、なし得る最善をした」とし、事件は金東雲の個人的犯罪だという解釈の上で、問題は解決済みという立場を表明しました。(*4)
■「日本も協力」説の真偽は?
韓国の重大な国家犯罪に対し、日本政府はなぜ、これ程に弱腰だったのでしょうか。当時一部のジャーナリストたちは、日本の当局が拉致事件に関わりを持っていたからではないかと指摘しました。金大中は朴正熙政権を批判する一方で、親北朝鮮の立場を取っており、日本政府にとっても厄介な存在でした。そのため、KCIAに協力する動機は十分にあったというのが彼らの主張です。
そんな彼らが注目したのが、「ミリオン資料サービス」という名の日本の探偵会社です。金大中の日本での居場所をなかなか確認できずにいたKCIAが調査を依頼したこの会社が、当時存在が公にされていなかった陸上自衛隊の情報部門「陸幕第2部特別勤務班」出身の元自衛官によって設立されたものであったため、記者たちは色めき立ちました。
この元自衛官は、北朝鮮関連情報などを交換するため、現役時代に金東雲としばしば接触していました。依頼された調査の中で、知人の記者による金大中のインタビュー取材を都内でセッティングするなど、金大中の所在確認に決定的な役割を果たしました。
■詳細な真相は今も闇の中に
とはいえ、元自衛官への事情聴取を含む捜査を行った警察当局は、「拉致計画を認識した上で加担したとは認められない」と結論づけています。元自衛官は後にメディアの取材に応じ、韓国の国会議員と面談させるためだという説明を金東雲からは受けていたと語り、自衛隊を含む日本の国家機関の関与を一切否定しています。(*5)
金大中事件をめぐっては他にも、日韓関係の裏面史にかかわる話がいろいろと取りざたされています。暴力団や右翼のフィクサーを含めた日韓の闇人脈、事件直後に韓国政府高官が来日し、田中角栄首相に億単位の「手打ち」のカネを持って来たという関係者の証言、ソウル地下鉄建設をはじめとした対韓支援利権をめぐる日韓の癒着……。
しかし、日本政府が韓国政府と大急ぎで行った「政治決着」のために事件の捜査は進まず、詳細な真相は今も闇の中です。
(*1)2007年10月25日 毎日新聞朝刊「金大中事件:調査委報告書(要旨) 国家犯罪、34年の闇」
(*2)1987年10月22日 毎日新聞朝刊「金大中氏のタクシー事故は「暗殺」でないと運転手が月刊誌に証言」
(*3)(*1)の「金大中事件:調査委報告書(要旨)」に記載あり
(*4)1975年11月13日 第76回国会 参議院外務委員会
(*5)2009年8月17日 産経新聞朝刊「金大中事件 新証言 国内会社が所在確認」
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著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』(三笠書房)などがある。
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(著作家 宇山 卓栄 写真=YONHAP NEWS/アフロ)