2026年、今年になってからこの方、毎週日曜日の夜になると秀吉さんが大活躍である。何のことかって、大河ドラマのお話だ。放送される度にあれやこれやとSNSで議論が渦巻きながら、着々と秀吉さんは天下統一への道を歩んでいる。

【写真多数】まるで江戸時代にタイムスリップしたかのよう…ナゾの新快速の終着駅「長浜」を写真で一気に見る

 で、その太閤・秀吉が初めて城持ちになった町が、長浜だ。


JR西日本“ナゾの新快速の終着駅”「長浜」には何がある? 撮影=鼠入昌史

 長浜は滋賀県北東部にある。東には伊吹山が聳え、西には琵琶湖が広がる。中心市街地の少し北には姉川の戦いの姉川が流れ、そのさらに北には浅井長政の居城だった小谷城。

 秀吉は、浅井氏が滅んだ後にその領土を与えられ、琵琶湖に面する平野部の“今浜”に城を築き、城下町を整備した。そして町の名を「長浜」に改める。これが長浜の町のはじまり、というわけだ。

 と、このあたりまでは大河ドラマの最後にくっついている“紀行コーナー”でも紹介されている。むしろ問題はここからだ。

新快速ユーザーにはお馴染みの駅

 秀吉が長浜を治めてから実に400年以上が経ったいまでも、長浜は滋賀県内の一都市として続いている。そればかりか、玄関口の長浜駅には関西の大看板・新快速も乗り入れている。

 本数こそ少ないながら、播州赤穂発長浜行き、つまり途中に姫路も神戸も大阪も京都も通り抜けるロングラン列車まであるくらいだ。

 つまり、秀吉の時代から400年経って、長浜はいまや新快速の終着駅として確かな存在感を示しているのである。いったい、長浜とはどんな町なのだろうか。

 そんなわけで、京都駅から新快速に乗って1時間とちょっと。大津・草津・近江八幡、そしてひこにゃんでおなじみ彦根や新幹線の米原駅も過ぎて、ようやく長浜駅にたどり着く。

さっそく秀吉像がお出迎え

 長浜駅で降りて橋上の改札口を抜けると、あちらこちらに秀吉(というか『豊臣兄弟!』)のポスターが貼られていた。秀吉さん縁の地なのだから、ここぞとばかりにアピールしておこうという意気込みが伝わってくる。

 そのおかげ……というよりは、ちょうど訪れた日は長浜のお祭りの日。そのため、観光客らしき人たちの姿が目立つ。外国人はあまりおらず、多いのはご年配の女性グループかご夫婦といったところだ。まだ外国人には“見つかっていない町”なのだろうか。

 ひとまず観光客の流れに乗って、東口に向かう。駅舎からそのままデッキで繋がっているのが駅前の「えきまちテラス長浜」というビルだ。中には観光案内所や飲食店などが入っているらしい。

 デッキ下の駅前広場の一角には、秀吉と石田三成の出会いの像。秀吉は長浜時代に子飼いの家臣をスカウトしている。石田三成もそのひとりなのだ。

 ちなみに大河ドラマでは藤堂高虎らとともに“採用試験”のようなものを行っていたが、長浜駅前の像はそれとは違う場面を描く。秀吉と三成の運命的な出会いとして伝わる逸話「三献茶」がそれだ。

 鷹狩りの途中に秀吉が休憩のために寺に立ち寄り、茶を所望した。すると、汗をかいている秀吉に最初の1杯はぬるいお茶をたっぷりと。2杯目は少し熱いくらいのお茶をほどほどに。最後は小さな茶碗で熱い茶を。

 この至れり尽くせりのおもてなしをした茶坊主が三成で……というお話である。

 まあ、ドラマも三献茶もどちらも真偽のほどは怪しいところ。いずれにしても、秀吉さんと石田三成が出会ったのが長浜時代だったことだけは間違いない。

 さて、そんなわけで、えきまちテラスの脇を抜けて町中へと進んでゆこう。

なにやら奇抜なご当地タワーが…

 駅前通りを少し歩いたところに、何やら奇抜でレトロな雑居ビルが見えてくる。「長浜タワービル」というらしく、その名の通りてっぺんにはどことなく東京タワーっぽいオブジェが飾られていた。1964年、新しい長浜名物をと建てられたのだとか。

 どうしたって目を引いてしまう長浜タワービルの脇の道。この道が、北国街道だ。米原で中山道と分かれて北陸方面へと通じていた江戸時代の大動脈。現代になぞらえるならば、国道8号や北陸本線のルーツということになろうか。

 そしてこの北国街道を中心に、江戸の昔の、そして秀吉時代の面影をたっぷりと残した長浜の中心市街地が広がっている。

黒壁スクエアはなかなかの賑わいぶり

 とりわけ、北国街道と大手門通りが交わる交差点を中心に、レストランやカフェなどが建ち並び、アーケードの商店街まであって一大観光エリアになっている。

「黒壁スクエア」と名付けられたこのゾーン。京都や大阪といった大都市から1時間以上かかる地方都市とはおよそ思えないような、なかなかの賑わいぶりといっていい。

 そんなアーケードの商店街を東に抜けると、長浜御坊表参道という南北の通りに出る。こちらも古い町並がそのままに観光地風情を醸している小さな道だ。そして、北の端には通称“長浜御坊”、真宗大谷派長浜別院大通寺の山門が見える。

 誘われるように大通寺の山門をくぐると、境内には大河ドラマ館が設置されていた。

 なんとなく立ち寄ってみると、撮影で使用された小道具や出演者のサイン・メッセージ、また撮影の裏側や今後の見どころなどを収めたちょっとしたムービーも鑑賞できる。なるほど、こうして大河ドラマは観光振興にも大いに力を発揮しているのだ。

 そしてこのいかにも城下町っぽい町並みこそが、その原点は秀吉の築いた城下町なのである。

年貢米を運ぶ一大拠点だった

 秀吉が長浜城を築城したのは1574年のこと。1582年の本能寺の変後は秀吉の手を離れ、江戸時代には彦根藩の領地に組み込まれて城も取り壊されている。つまり、秀吉時代はほんの8年ばかりということになる。

 それでも、秀吉が年貢を免除するなどして保護した長浜の商業が衰えることはなかった。

 特に長浜港は米原・松原(彦根城下)と並んで彦根三湊と呼ばれ、物資の集散地として江戸時代を通じて賑わっている。湖北の年貢米を大津や彦根に運ぶ一大拠点だったというわけだ。

 さらに北国街道の宿場町という役割もあり、郊外の国友は鉄砲の生産地として名を馳せた。

 江戸時代後期に丹後から技術を導入して盛んになった浜ちりめんは、長浜きっての特産品。城下町ではなくなり歴史の表舞台からは退いたものの、湖北の中心として長浜は確かな存在感を放っていたのである。

 そんな長浜が、明治に入って再び表舞台に名を見せる。長浜駅の開業だ。

 普通ならば、地方都市の駅がひとつ開業したなんて珍しくもなんともないところ。しかし、長浜駅は他の駅とはまったく違う、特別な意味を持っていた。

 というのも、長浜駅は琵琶湖舟運と結びついた日本初の“鉄道連絡船”とともにはじまった駅だからなのだ。

船に乗るための駅でもあった

 長浜駅が開業したのは1882年のこと。この当時、鉄道は新橋〜横浜間や大津〜神戸間などごくわずかしか開通していなかった。そんな中、京阪神と日本海沿いを結ぶ大動脈として、長浜〜柳ヶ瀬間が開通。次いで1884年には金ヶ崎(敦賀)まで延伸したのである。

 そして同時に、長浜と大津の間の航路との連絡もはじまった。大垣〜長浜間が開通すると、鉄道と船の連絡きっぷも発売され、名実共に鉄道連絡船の歴史はスタートしたのだ。

 もともと琵琶湖には秀吉の時代、いやきっとそれよりも前からたくさんの船が行ったり来たりして、物流の要を担っていた。明治に入ってすぐに蒸気船が導入されて、縦横無尽に琵琶湖の上を駆け巡る。それだけ充実した物流網が湖の上にあったのだから、鉄道ネットワークにもそれを利用したのだ。

 のちの青函連絡船などは、いずれも国鉄が自ら運営していた。ただ、長浜と大津の連絡船は、太湖汽船という民間企業の手によった。

 もちろん国が補助金を出してはいたようだが、国の運営する鉄道路線の間を民間の船が結ぶという、近代黎明期の日本の試行錯誤を象徴するかのような仕組みになっていた。

 この太湖汽船の創業者のひとり浅見又蔵は長浜の人物で、長浜への駅設置を強く求める運動にも関わっていたという。

 当初、国の計画では米原に駅と連絡船の港を置く計画だった。太湖汽船を興して駅の設置を求めた浅見の力が、近代長浜の繁栄に大いに貢献したことは間違いない。

 ともあれ、駅と連絡船が開業すると、長浜は繁栄を謳歌する。なにしろ、鉄道で関東と関西、また関西と北陸を行き来しようとすれば、決まって長浜で降りて鉄道と船を乗り継がねばならないのだ。

 長浜駅前には旅館や運送店が軒を連ね、それはそれは活気に満ちていたという。

 1887年には、明治天皇も長浜を訪れている。京都を訪れた帰路、大津から連絡船で長浜にたどり着き、駅前の慶雲館(浅見又蔵の別邸)でしばし休憩。ふたたび列車に乗って関ケ原・大垣方面に向かっていった。

いまも連絡船時代の遺構がある

 しかし、そんな賑わいも7年ほどで幕を閉じる。1889年に現在の東海道本線にあたる、大津〜米原〜長浜間が開業したのだ。

 大垣方面との分岐もそれまでの長浜から米原に改められ、この時点で長浜は交通の要衝から一介の通過駅に役割を変えることになる。

 この変化によって、長浜駅も形を変えた。港近くにあった駅舎はそのままに、1902年に現在地に新しい駅舎が建てられる。

 現在は橋上駅になって駅の東西に出口があるが、このときの駅舎は中心市街地の広がる東口に置かれていたという。海に背を向けた、途中駅としての長浜であった。

 いまでも、連絡船時代の長浜駅舎や慶雲館は残っている。橋上駅から西口に出て、線路沿いを少し南に歩いたところにあるのがそれだ。

 駅舎は「長浜鉄道スクエア」という鉄道博物館となり、その向かいの慶雲館もそのままに。

 古くからの町の中心からはちょっと離れた町外れに佇む、開業当時の長浜ステーション。黒壁スクエアには背を向けているからか、こちらに来る観光客もいくらか少ない印象だ。

秀吉さんの町というだけではない

 それでも、秀吉時代とほとんど同じ10年足らずの連絡船時代は、長浜という町の歴史のエポックメイキングであったことは間違いないといっていい。

 古い長浜駅舎から、ほんの5分も歩けば現在の長浜港。竹生島への船が出ている。現在の琵琶湖の舟運は、かつての交通の大動脈としての姿は失ったが、観光色の強い存在としていまも続いているのだ。

 そして、そんな港のすぐ北に広がる豊公園。その一角に、長浜城跡の模擬天守が聳えている。日本一の湖に面する港町・長浜。そのシンボルは、やっぱり秀吉さんのお城なのかもしれない。

撮影=鼠入昌史

(鼠入 昌史)