大坂の中心地の”5分の1”が焼き払われ、7万人が家を失った「大塩平八郎の乱」…それでも大塩が大坂町人から崇められたワケ

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大阪のシンボル・大阪城を築いた豊臣秀吉。百姓の出自ながら天下統一を果たし、大阪のまちの礎を形づくったこの英傑を、大阪人は親しみを込めて「太閤さん」と呼び愛してきた。

「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の句に象徴される知略家な一面を持つ武将、派手好きでコテコテな"大阪人気質”の元祖--。そんなイメージで語られがちな秀吉だが、その人物像は、実は時代とともに少しずつ姿を変えてきた。

大阪というまちの歴史とともに揺れ動いてきた「秀吉像」とは一体何なのか。その変遷を紐解く一冊『大阪人はなぜ太閤さんが好きなのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。

【前編を読む】司馬遼太郎「大阪人の自尊心は江戸時代から育ち続けている」…幕府に頼らず都市を運営する「大坂町人の矜持」とは?

大火を引き起こした大塩平八郎の乱

大坂の東町奉行所の与力だった大塩平八郎が「救民」の旗を掲げて武装蜂起したのは、久須美が着任する6年前の天保8年のことである。

大坂の武士のなかでも城代や奉行が江戸から派遣される、いわばキャリア官僚なのに対して、奉行を補佐する与力や同心は地元のノンキャリである。大塩は組違いの西町奉行所の与力の汚職を告発するなど不正を次々と暴く名与力と謳われたが、重用してくれた上司の東町奉行が高齢により引退すると、大塩も辞して私塾での陽明学の指導に専念する。

しかし、折からの天保の大飢饉により大坂でも米不足が起こり、寒さや飢えで死ぬ者が4万5000人も出るありさまとなると、学業の世界だけにいるわけにはいかなくなった。そもそも陽明学は知行合一を説き実践を重んじる学問だ。大塩は古巣の奉行所に救済を訴えるが相手にされず、自らの蔵書5万冊をすべて売却して得た金を貧民らに配った後に決起に至った。

自宅があった天満で大塩らが蜂起すると、あちこちから火の手が上がり、折からの強風に煽られて大川を越えて船場へと燃え移る。大塩らも難波橋を渡って船場になだれ込むと、買い占めにより米価を釣り上げる張本人とみられていた鴻池屋や天王寺屋などの豪商の家に片っ端から鉄砲を撃ち込んだり焙烙玉を投げ込んだり。みるみる火事は広がった。

大塩ら反乱部隊は総勢300人。そのうち大塩の門弟ら主だった者は2、30人だけで、あとは呼びかけに応じた百姓や都市下層民という混成部隊だったが、さらに高麗橋を渡って上町に入るなど暴れ回る。燃え盛る火のなか大勢の市民が逃げ惑い大混乱となった頃に、ようやく駆けつけた奉行らが率いる鎮圧部隊と衝突。蹴散らされて反乱は半日で終わった。

このときの大火は「大塩焼け」と呼ばれ、天満から船場にかけて市中の5分の1が焼失し、7万人が焼け出されたという。徳川支配の象徴である東照宮も焼失した。

大塩に喝采を送る大坂人

首謀者らの厳しい捜索が行われたが、大塩は40日あまりも潜伏を続けた挙げ句、現在の靱公園そばの染物商の家に匿われていたところを発見され、大坂城代らが率いる部隊に取り囲まれたところで爆薬を抱えて自決した。

家を焼かれるなどして大きな迷惑を被ったはずの大坂の町人だが、乱の後に大塩が幕府の役人の不正を糾弾し、民衆の救済のために蜂起したと知ると、「大塩様」「平八郎様」と崇めるようになる。

大塩をたたえるような落首や芝居、講釈などが人気を博し、染物商の家で自爆したのは影武者で、本物の大塩は九州に逃れ、さらには大陸へと渡ったなどの噂がまことしやかに流れたという。秀頼の逃亡伝説の焼き直しのようでもある。大阪が判官贔屓のまちと言われるのは、こういうところだろうか。負けたほう、権力に押し潰されたほうを応援してしまう。

奉行所では、大塩は公儀に謀反を企てた重罪人であり、これをたたえるようなことは一切まかりならんと芝居や講釈に検閲の目を光らせたが、大塩に喝采を送る大坂人は後を絶たなかった。反徳川、反権力の土壌は、大坂にしっかりと根を下ろしていた。やがて全国各地で一揆や騒動が頻発するようになると、そのうねりは倒幕へとつながっていった。

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