火炎瓶と催涙弾が飛び交い、管制塔を「たった20人ほど」の活動家が占拠…成田空港を襲った「悪夢の2時間」衝撃の全容
〈《成田空港の黒歴史》「開けろ、ひきょう者!」武装部隊が管制塔に立てこもり、地上は「まるで市街戦」…前代未聞の“空港占拠事件”の舞台裏〉から続く
1978年、開港を4日後に控えた成田空港を悲劇が襲った。建設に反対する武装した活動家集団が、管制塔を占拠したのだ。
【衝撃写真】破壊された管制塔、集結する建設反対派…成田空港の“黒歴史写真”を見る
当時、1万人超の警備隊を配置していたにもかかわらず、なぜ事件は起きたのか。朝日新聞の大和田武士記者による書籍『成田空港秘話 三里塚闘争から「第2の開港」まで』(朝日新聞出版)から、事件を計画した和多田粂夫(66)、行動隊長だった前田道彦(55)、前田と管制塔に侵入した中川憲一(60)や元管制官らを取材してまとめた当時のようすをお届けする。

開港時に「事件」が起きていた成田空港 ©cap10hk/イメージマート
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管制塔はバールやハンマーで破壊されまくった
地上約60メートル。外壁が反り返った場所があり「腕の力でよじ登った。幅50センチぐらいのところも歩いた。本当に怖かった」と前田は振り返る。中川は「天気は良かったが、風が強かった」と語った。
部隊の1人がバールで管制室の2重ガラスを力いっぱいたたいた。小さなヒビが入り、そこを何度もたたき続けた。元管制官たちは関係各部署に連絡した後、天井のハッチを開けて屋上に避難した。元管制官は避難しながら、「なぜ、どこから、管制室に入ったんだ」という疑問がよぎった。
見下ろすと、パラボラアンテナを伝って上ってくるヘルメットの男たちが見えた。元管制官はハッチに棒を挟み、全員がズボンのベルトを外して棒を固定した。襲撃部隊は窓ガラスの割れ目を広げ、室内に入った。ちょうど、最後の管制官が天井のハッチを開けて屋上に脱出した直後だった。
前田も中川も、管制室の機器や装置をハンマーや鉄パイプで壊した。夢中だった。元管制官の耳にも、鈍い破壊音がしばらく響き続けた。強い風はなおも吹き続けていた。「16階のさらに屋上だったが怖いというよりも、寒かった。全員が室内用の薄着だった」と振り返る。
元活動家で管制塔内に入ったのは10人、管制室までは6人がたどり着いた。
地上は機動隊と反対派がもみ合い、まるで「市街戦」のような混乱に
成田空港の管制室では襲撃部隊による破壊が続いた。部隊のメンバーの1人、中川憲一は大量のバインダーに閉じられていた管制関係の書類を割れた窓から外にばらまいた。書類は風に乗り、飛んだ。テレビニュースに映し出されたその光景は活動家がビラをまいているように見えた。
当時受験生だった劇作家の鴻上尚史は岡山駅の待合室でニュースをみた。早稲田大学の受験のために新幹線で上京する途中だった。「すごいことになっているな」。鴻上は衝撃を受け、後に、小説「ヘルメットをかぶった君に会いたい」(集英社)を執筆する。
書類は、反対派と衝突していた元機動隊員中村勇の頭上にも舞い降りてきた。中村は伝令を受け、空港の南側約1.5キロに位置し、反対派が立てこもっていた「横堀要塞」から急きょ、管制塔方面へ転戦。「ラッセル車」と呼ばれた、反対派の武装トラックを退却させたばかりだった。
反対派から喚声があがり、周囲が騒がしくなった。「何だ何だ」と思って見上げると、「ヘルメットをかぶった連中が上で赤い旗を振ってビラをばらまいていた」。中村は「あー。やられた」と思った。
管制室からは空港の各ゲートで機動隊ともみ合う集団や火炎瓶の煙が見渡せた。反対派の奮闘に、行動隊長の前田道彦も「連中もやってるぞ、やってるぞ」と思った。中川は「のどがカラカラで置いてあったヤカンの水をがぶ飲みした」。前田らは機械を壊し続けたが、1台のテレビは破壊を免れた。画面は、管制塔占拠の臨時ニュースに切り替わっていた。
屋上にいた管制官たちも、「まるで市街戦のような」(元管制官)地上の光景を見守っていた。そこへ報道のヘリコプターが近づいてきた。管制官の1人が「私たちは管制官です」と、ポケットから取り出した紙切れに書いて見せた。
管制官の1人が、警察などに状況を知らせるためヘリに飛び乗った。その直後、ヘリのバランスが崩れた。元管制官は「ローターが頭上すれすれを通ったように思った」。しばらくして警察による救助が始まった。先輩がヘリでつり上げられた時、「ブランコのように大きく揺れて、遠くにある公団ビルの方に吸い込まれるように見えた」。元管制官の救出順は最後だった。全員が助け出されたのは午後3時過ぎだった。
警察官は「完全にこっちの負けだ」と白旗
元管制官は、ヘリに乗り込む前に管制官全員のベルトを回収するのを忘れなかった。
「恐怖感はマヒしていた。あんな場所にいても時折、首を伸ばして管制室内の様子を見ていましたから」
態勢を立て直した警察は、ヘリから管制室に催涙弾を撃ち込んだ。襲撃部隊は逮捕され、約2時間に及ぶ占拠事件が終わった。逮捕された前田に、ある警察官が言った。
「今日は、完全にこっちの負けだ」
1978年3月26日、成田空港の管制塔を占拠した活動家たちが警官隊によって排除された後、管制官たちが管制室に戻った。状況を確認するためだ。午後8時ごろだった。
真っ暗な室内には、機動隊が撃ち込んだ催涙ガスがまだ残っており、涙があふれた。懐中電灯で照らし出された機械や配線は、どれもこれも壊されていた。元管制官は「1週間ぐらい精神状態が混乱してしまった」という。
警察官1万4000人に対し、活動家は22人。人数からすれば、管制塔占拠などできるはずがなかった。だが、主導した和多田粂夫は、事件の約1年前、空港の建設予定図を入手していた。「8畳分ぐらいに引き伸ばし、どこに機動隊が配置されるかを検討していた」と告白する。
和多田は、機動隊が管制塔以外に分散するようにデモ隊などを配置。手薄になった心臓部に、地下から近づき、突入することを計画した。「22人を3つの部隊に分けた。1つは入り口を守り、1つは塔の中に入って守る。最後の1部隊が管制室まで行く作戦だった」と振り返る。
占拠事件で逮捕されたのは160人余り。首謀者の和多田は航空危険罪などで懲役10年が、行動隊長の前田道彦には同9年が、また中川憲一には同6年がそれぞれ言い渡された。3人を含む中心メンバー17人は4〜10年の刑期が確定。うち1人が保釈中に自殺した。
「懲役は確かに長かった。でも、まったく後悔はしていない」。3人は口をそろえた。「私たちは内ゲバでもテロでもない、健全な大衆闘争をしたかった。だから、絶対に死者やけが人が出ないように、機動隊にも必要以上に危害を加えないように厳命していた」と和多田はいう。
(大和田 武士/Webオリジナル(外部転載))
