【豊臣兄弟!】残忍すぎてNHK大河では絶対に描けない 信長の比叡山殺戮と意外な動機
「宗教的権威」への挑戦ではない?
元亀2年(1571)9月12日に行われた織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちは、戦国時代の事件のなかでも、ことに凄惨なものとして記憶されている。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第16回「覚悟の比叡山」(4月26日放送)では、まさにこの焼き討ちが描写される。
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浅井・朝倉の連合軍は手を結んだ延暦寺に立てこもり、それを取り囲んだ織田信長(小栗旬)の軍勢と膠着状態になった。その後、将軍足利義昭(尾上右近)があいだを取り持って和睦が結ばれるが、長くは続かない。信長は明智光秀(要潤)に、延暦寺に書状を送って信長に従うように伝え、従わないときは、女や子供だろうと皆殺しにしろ、と命じた。しかし延暦寺は応じないので、「皆殺し」が実行されるのである。

それがいかに凄惨であったかは後述するとして、信長はなぜ、このような恐ろしい殺戮を行ったのだろうか。
この焼き討ちは、信長による既存の宗教への挑戦、または宗教的権威の否定のように語られることが多い。無神論者たる信長の革新性の証のようにもいわれる。教科書も同様だ。手元にある高校教科書『詳説 日本史』(山川出版社)を開くと、2011年発行の少々古い版ではあるが、〈比叡山延暦寺の焼打ちをおこなって、強大な宗教的権威を屈服させた〉と書かれ、やはり宗教への弾圧であることが強調されている。
だが、結論を先に述べると、信長の動機がなんであれ、この事件が戦国一ともいうべき凄惨なものだったのはまちがいないとして、「宗教的権威への挑戦」という見方にとらわれると、信長のねらいを把握しそこなってしまう。
『信長公記』に書かれた信長の動機
信長の事績についての第一級の史料である太田牛一の『信長公記』には、この焼き討ちに至る経緯が次のように書かれている。
〈去年、信長が野田・福島を攻めて、もう少しで落城という時、越前の朝倉義景と北近江の浅井長政が坂本方面へ攻め寄せた。信長は「敵が京都市中に進入したら厄介なことになる」と言って、野田・福島の陣を引き払い、ただちに逢坂山を越え、越前・北近江勢に攻め掛かり、局笠山へ追い上げた。
兵糧攻めにする作戦で、延暦寺の僧衆を呼び寄せ、「このたび信長に味方をすれば、信長の領国中にある延暦寺領を元どおり返還する」旨を誓い、さらに朱印状を手渡して、「しかし、出家の道理で一方のみに味方することはできないと言うのであれば、我々の作戦行動を妨害しないでもらいたい」と筋道立てて申し聞かせ、「もしもこの二カ条に違背したならば、根本中堂・日吉大社をはじめとして、一山ことごとくを焼き払うであろう」と言明したのであった〉(中川太古訳、以下同)
いろいろな地名が出てきてわかりにくい点もあるが、要するにこういうことだ。浅井・朝倉勢が(比叡山の麓の)坂本から京都方面に進攻したので、信長は摂津(大阪府北東部と兵庫県東部)から急いで引き返した。このとき浅井・朝倉軍は比叡山にこもり、2カ月にわたって信長勢とのにらみ合いと小競り合いが続き、その間、信長は延暦寺に対し、信長に味方をすれば領土は返すし、宗教上の理由からどちらか一方に味方するのが難しければ、せめて中立でいてほしいと要求した。その際、どちらの要求も拒んで浅井・朝倉側に味方し続けるなら、比叡山を焼き討ちすると宣告した、というのである。
いまの記述は、元亀元年(1570)9月についての内容だ。このころの信長は厳しい状況に置かれていた。浅井・朝倉軍との戦いが膠着化すると、三好三人衆や近江(滋賀県)の六角氏、伊勢(三重県東部)長島の一向一揆などが勢いづき、守勢に回らざるをえなかった。その間、ずっと朝倉・浅井軍を寺域に受け入れ、共同歩調をとっていたのが延暦寺だった。見かねた足利義昭が仲介に入り、いったん12月に、信長と浅井・朝倉両氏との和睦が成立した。
政治的な報復措置だった
しかし、翌元亀2年(1571)になると和睦は破られてしまう。延暦寺はというと、信長の要求を無視して、その後も朝倉・浅井軍を支援し続け、信長はそのことへの恨みを募らせていった。ふたたび『信長公記』を引用する。
〈比叡山の山上・山下の僧衆は、延暦寺が皇都の鎮守であるにもかかわらず、日常の行動でも仏道の修行でも出家の道をはずれ、天下の笑いものになっているのも恥じず、天の道に背くことの恐ろしさにも気づかず、色欲に耽り、生臭いものを食い、金銀の欲に溺れて、浅井・朝倉に加担し、勝手気ままな振るまいをしていた。けれども信長は、時の流れに従って、ひとまずは遠慮をし、事を荒立てぬよう、残念ながら兵を収めたのであった〉
信長は、延暦寺が浅井・朝倉に加担するだけでなく、さまざまな点で道を外れていても、遠慮をして兵も収め、せめて中立でいてほしいという提案が受け入れられるのを待っていた、という。だが、1年経っても、信長の提案は無視されたままだったので、元亀2年9月12日、自分の提案を無視したときは比叡山を焼き討ちするという1年前の宣告を、ついに実行に移したのである。
この経緯からも、信長は宗教的権威を否定しようとしたのではない。「皇都の鎮守のくせに」「仏道を歩むべきところがけしからん」という思いが信長にあったにせよ、焼き討ちはあくまでも、浅井・朝倉を支援して自分を苦しめた組織に対する報復として行われたということが、『信長公記』の記述からわかる。延暦寺が宗教的権威だから焼き討ちしたのではなく、政治的な抵抗勢力が、たまたま宗教的権威だった、という話である。宗教的権威に対しても怖気づかなかった、とはいえるが。
悪魔の仕業としか思えない凄惨さ
いずれにせよ、行われたことは凄惨をきわめた。『信長公記』は次のように記す。
〈その鬱憤を今日こそ晴らすため、九月十二日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、僧房・経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞の湧き上がるごとく、無惨にも一山ことごとく灰燼の地と化した。
山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、皆はだしのままで八王寺山へ逃げ上り、日吉大社の奥宮に逃げ込んだ。諸隊の兵は、四方から鬨の声をあげて攻め上がった。僧・俗・児童・学僧・上人、すべての首を切り、信長の検分に供して、これは叡山を代表するほどの高僧であるとか、貴僧である、学識の高い僧であるなどと言上した。そのほか美女・小童、数も知れぬほど捕らえ、信長の前に引き出した。悪僧はいうまでもなく、「私どもはお助けください」と口々に哀願する者たちも決して宥さず、一人残らず首を打ち落とした。哀れにも数千の死体がごろごろところがり、目も当てられぬ有様だった〉
悪魔の仕業としか思えないほどの想像を絶する惨たらしさで、『豊臣兄弟!』では到底描くことができない。
『信長公記』には続けて〈信長は、年来の鬱憤を晴らすことができた〉と書かれている。自分を散々苦しめた敵に報復して鬱憤を晴らした、ということだ。すると、信長の感情を満たすための行動だったようにも読めるが、信長には冷徹な計算があった。
この時代、災害や戦乱から領民を守れない領主は信用されなかった。延暦寺のような寺院も領主であったので、その点では同じだった。だから信長は、女や子供まで徹底的に殺害することで、延暦寺が領主として失格であることを世の中に知らしめたのだ。当時、信長は各地で寺院勢力と戦っていたが、延暦寺への仕打ちは、信長に抵抗したら寺院としても領主としても存立し得ないという、強烈なメッセージになっただろう。
そうした動機も含めて、延暦寺の焼き討ちは、きわめて政治的な事件だったのである。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
