“笑いから悲劇へ”パリに転がる“謎”のガスボンベの正体 若者をむしばむ「笑気ガス」乱用の実態

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医療現場やホイップクリームの製造などに使われる「笑気ガス」。
吸入すると多幸感や笑いが出やすくなることからこのように呼ばれている。

近年フランスでは、笑気ガスを吸って“酩酊状態”を楽しむ若者が急増していて深刻な社会問題となっている。フランスの公的機関(ANSM、Santé publique France)によれば、2023年の中毒報告は前年比2〜3割増えるなど、若年層の健康被害は年々増加。

こういった実態を受け、3月下旬、政府は関連法案の成立を前に対策を加速し、若者の乱用拡大を止めるため、政府は個人向け販売を原則禁止する法改正を検討・準備している。

日常に潜む危険 笑気ガスが若年層にまん延

笑気ガスは正式には「亜酸化窒素(N₂O)」と呼ばれる無色のガスだ。
医学的には“吸入麻酔薬”に分類されるため、これまで医療現場では麻酔や鎮痛に利用されてきた。また食品の分野ではホイップクリームの噴射ガスとして使われてきた。

医療や食品に使われる一方で、吸入時に多幸感をもたらすという作用があることからフランスでは若者の利用が増加。政府機関の調査では、18〜24歳の約14%が「一度は『笑気ガス』を試したことがある」というデータもある。

深夜のクラブや公園周辺では、ガスの小型ボンベを風船に移して吸う光景が珍しくないという。

笑気ガス吸入し運転か、19歳死亡 事故相次ぐ

2026年3月、フランスのパリ郊外で、笑気ガスを吸って運転していたとみられる19歳の男性と同乗者2人が死亡する事故が起きた。

笑気ガスの吸引による事故が相次ぐ中、フランス当局は、笑気ガスが麻薬に指定されていないため全国一律で所持を規制できない点が課題となっていた。こうした状況を受け政府は規制を強化することになった。

政府が販売禁止へ…個人使用に罰則も

これまでも未成年への販売制限や大量購入を禁止してきたが、政府は今回、さらに踏み込み、個人への販売を禁止。工業、医療、飲食業などの専門用途に限り流通を認める内容になる予定だ。
違反した販売業者にも罰金などの罰則を科す方向で法整備が進められている。

政府は新たにSNSで「Proto(笑気ガス)=笑いから悲劇は“あっという間”」と注意喚起キャンペーンを発足。しかし実態はとどまるどころか事故や乱用の増加を受け、厳罰化への動きを加速させている。

2021年には未成年への販売禁止などを規制強化したにもかかわらず中毒報告は増え続け、2023年の健康被害報告は前年比2〜3割増となるなど、実効性が乏しく、今回個人への販売禁止に踏み切る背景ともされている。

シャンゼリゼ通り裏に散乱“ガスボンベ”

実際にパリ中心部を歩くとシャンゼリゼ通りの裏道で、奇妙な光景に出くわした。道ばたに転がっていたのは30センチぐらいのガスボンベ。

取材班が見つけたのは、合わせて6本。ガスボンベは重くずっしりとしていて硬い。工業用の容器だろうか。

何よりも驚いたのは、小学校がある通り沿いに落ちていた点だ。周囲を見渡すと、近くにはナイトクラブやバーも点在していた。人目を避けるように細い路地へ入り、そこで“何か”が使われ、捨てられていった…そんな光景が自然と頭に浮かぶ。

これらは、すべて家庭や飲食店でホイップクリームを作るために使われる食品用のガスボンベだ。

このボンベは若者が吸引するための“道具”として利用され、街の至る所に投げ捨てられていたのだ。華やかなシャンゼリゼ通りの裏道の奇妙な風景…。

これが今回の取材を進めるきっかけとなった。

保護者はどういった思いをもっているのだろうか?

保護者によると、当初は数本小さい缶を1、2本見かける程度だったが、最近はその本数も増え、小学校の近くのあちこちに散乱しているのを見かけることがあるという。

ある保護者は「子供たちはそれが何かも、分かっていない」と話し、本来とは違う使い方をしている人がいること、だからこそ危険であることも伝えているという。

また、別の保護者からは「パリはいつまでもパリよ」と繁華街という側面と住民が暮らす街が混ざる地域だからこそ、一種の諦めのような言葉もあった。いずれの保護者からも政府の対応には不満がくすぶっているのが言葉の端々から分かった。

日本やアジアでも広がり…医師が語る深刻な健康被害

日本では2016年に亜酸化窒素(笑気ガス)が薬機法で「指定薬物」に指定され、医療や食品用途以外の目的での所持、使用などは禁止されている。また近年、ベトナム、タイ、台湾、韓国などで若年層による乱用が社会問題化している。
特に店頭で容易に入手できることから関連するトラブルも増加していてベトナム・ホーチミンの日本総領事館が注意喚起を出すなど、笑気ガスは世界各地で問題となっている。

合法と違法の狭間にある“笑気ガス”。最前線で治療に当たる医師に話を聞いた。

フランス・リール大学病院 ギヨム・グリッシュ医師:
使用者の多くは18〜20歳。国内では年間数千件規模の報告があり、フランス北部の地域だけでも年間250〜300件のケースがあります。

多くは友人と一緒に使用したことがきっかけで、次第に一人でも使い、使用量が増える。しかし自覚のないまま依存に陥るケースが少なくない。神経への影響は血管にも及び、車椅子生活を余儀なくされる若者もいるといい、治療は困難だ。

さらに、グリッシュ医師は「この物質は体内に残る時間が非常に短く、検査で検出することがほぼ不可能です。患者が自ら使用を告白しない限り、診断は難しい」と話す。

確立した治療プロトコルもなく、現在の医療現場では信頼できる指標が不足している。

さらに、95%の患者が救急外来を利用するが、医療体制はすでに限界に近いと強調するとともに、まさに「サイレント・パンデミック」状態になっていると指摘する。

日本への警鐘 見えないからこそ注意を

先にあるように、日本では亜酸化窒素はすでに規制されており、欧州のような大規模な乱用は表面化していない。しかしグリッシュ医師は、そんな日本に対しても警鐘を鳴らす。

フランス・リール大学病院 ギヨム・グリッシュ医師:
問題が見えていない国ほど、最も危険です。

フランスやベルギーでも当初は「存在しない問題」とされていた。しかし医療従事者に対して笑気ガスに関する啓発活動を行ったところ、見逃されていた患者が次々と顕在化したという。

笑気ガスの問題は「存在しない」のではなく「正しい知識」と「想定する力」が備わっていなかったために「見えていない」だけだった。

また、「医療や食品に使われている=安全」という先入観も、乱用拡大の要因と指摘する。
カラフルでフレーバー付きのボンベもあり、若者にとって「危険な薬物」ではなく、軽い嗜好品のように映っているのかもしれない。

グリッシュ医師の警告は明確だ。インタビューを通じて浮かび上がったのは、「問題が起きてから考えるのでは遅い。問題が起きていないと信じ込むことこそが、最も危険だ」という警告だ。「もし日本で笑気ガスの問題が潜在化しているとしたら…」ふとそのようなことが脳裏をかすめた。

「正しい知識」と「想定する力」。
フランスの笑気ガス対策の経験が、今後、一つの教訓になるかもしれない。
(FNNパリ支局長 陶山祥平)