開催国アルゼンチンが初優勝を果たした1978年大会は、栄光と闇が交錯した。(C)Getty Images

写真拡大 (全3枚)

 北中米ワールドカップが6月11日に開幕を迎える。4年に一度、これまでも世界中のサッカーファンを魅了してきた祭典は、常に時代を映す鏡だった。本稿では順位や記録の先にある物語に光を当て、その大会を彩ったスター、名勝負、そして時代背景などをひも解いていく。今回は1978年の第11回大会だ。

――◆――◆――

●第11回大会(1978年)/アルゼンチン開催
優勝:アルゼンチン
準優勝:オランダ
【得点王】マリオ・ケンペス(アルゼンチン):6得点

 1978年大会のアルゼンチン開催は、すでに12年前にFIFAのロンドン総会で決まっていた。第1回大会から準優勝のアルゼンチンは、第3回以降何度も立候補してきたし、スタジアムも揃っていてクラブレベルでの実績も申し分なかった。

 ところが大会を2年後に控えた1976年3月、軍事クーデターが起こりホルヘ・ビデラが大統領に就く。独裁者として全権を掌握したビデラは「国家再編成プロジェクト」と銘打ち、反政府と見られる人々を次々に拉致し、拷問にかける暴挙に出て行方不明者は3万人にも上ったと言われている。

 当然欧州では開催返上を求めるデモも行なわれ、米国政府も人権侵害を批判し、軍事援助や武器売却を完全停止した。しかし、ビデラにとってワールドカップは、政権安定をアピールする格好の道具だった。

 逆に大会運営組織「EAM78」を起ち上げ、巨額を投じて開催を強行する。その過程では、質素な運営を打ち出したオマル・アクティス組織委員長が殺害され、一転して豪華な一大プロジェクトに様変わりする事件もあった。
 
 こうして軍事政権下でのアルゼンチン代表は、優勝の「期待」を超えた「責務」を担うことになる。チームを率いるセサル・ルイス・メノッティ監督は、政府の全面協力を取りつけ国内組の若い選手たちでメンバーを構成すると、最高級の待遇で合宿を繰り返した。

 強化合宿はリーグ戦の最中にも行なわれたので、オズワルド・アルディレスやレネ・オウセマンら主力5人を抜かれたウラカンは、2年前の優勝から一転、2部落ちの危機に瀕したほどだった。

 それまでアルゼンチンは、1966年イングランド大会で「アニマル」と非難されたように、技術的には優れていても感情をコントトールできずに自滅していくことが多かった。そこでメノッティは、話し合いを重ねて冷静に熱く戦う重要性を説き、本来の長所であるスピード豊かなパスワークを活かした攻撃的スタイルを構築していく。

 そして最後に唯一の例外としてスペインのバレンシアから招集されたのが、マリオ・ケンペスだった。ケンペスは、ワールドカップの2年前にスペインへ渡り、いきなり24ゴール、28ゴールを記録し、2シーズン連続してリーガ・エスパニョーラの得点王に輝いていた。一方、早くから天才と将来を嘱望されていた18歳のディエゴ・マラドーナは「若過ぎる」という理由で最終的にはメンバーから外れた。

 アルゼンチン大会でも、1次リーグから2次リーグへ移行する前回の方式が踏襲され、開催国は7万人以上を収容するブエノスアイレスのエスタディオ・モヌメンタル(リーベルプレートのホーム)で1次リーグを戦った。だがグループ1は激戦で、アルゼンチンはハンガリーとフランスに2−1で競り勝つが、互いに2勝同士のイタリア戦はパオロ・ロッシのクロスからロベルト・ベッテガというユベントスコンビに決勝ゴールを奪われ、2次リーグはロサリオへ回ることになった。
 
 同じ南米の雄ブラジルも1次リーグは苦しんだ。前回経験者がリベリーノとGKのエメルソン・レオンだけで、クラウディオ・コウチーニョ監督は前回4位の反省から欧州の組織力を取り入れようとしたが、国内では「守備的過ぎる」と不評を買う。