結局初戦のスウェーデン戦を引き分けると、次戦からリベリーノは表向き「故障」という理由でメンバーから外し、「白いペレ」と期待を集めたジーコも試合を重ねるごとにサブ組に回すようになった。続くスペイン戦もスコアレスドローに終わったブラジルは、なんとか最後にオーストリアを1−0で下したものの2位通過となり、皮肉にも2次リーグはアルゼンチンと同じグループBで戦うことになるのだった。

 それでも2次リーグに入ると、ブラジルの調子は上向いた。中盤はトニーニョ・セレゾ、バチスタ、ディルセウと比較的攻守にバランスの取れた構成にして、オスカル、アマラウの強力なCBコンビが堅守を支える。最前線にはフィジカルの強いロベルト・ディナミッチ(英語読みではダイナマイト)を据えた。

 まずペルーを3−0で下すと、アルゼンチンとの直接対決は0−0のドロー。初戦でポーランドを2−0で下したアルゼンチンとは勝点で並び、決勝進出は互いの最終戦の結果次第となった。

 ブラジルは、アルゼンチンに3時間先駆けて最終戦を開始。ポーランドに3−1で快勝して、アルゼンチン戦の結果を見守る。アルゼンチンが決勝へ進むには、ペルーに4点差以上の勝利が必要になった。ペルーが1次リーグでオランダを抑えて首位通過をしていることからも、それは達成困難なノルマと言えた。

 キックオフ前にペルーのロッカールームには、ビデラ大統領が米国の元国務大臣ヘンリー・キッシンジャーを伴って現れた。

 まずビデラが口を開く。

「我々は兄弟のような国で結束している。そしてアルゼンチン国民は、喜び(優勝)を必要としている」

 さらにキッシンジャーも大会が成功することの重要性を強調したという。当時、米国のジミー・カーター政権は、アルゼンチンの軍事政権に批判的な立場を貫いたが、すでに民間人となったキッシンジャーは冷戦時の「反共」の立場で友好関係を維持していた。
 
 こうした背景もあり、ブラジル戦の結果を知ってからピッチに立ったアルゼンチンは、ペルーから大量6ゴールを奪って決勝進出を果たす。逆に3位決定戦も勝利したブラジルは、大会で唯一無敗のまま帰国することになった。

 当時、各方面から八百長疑惑の声が挙がったが、決定的な証拠はなくFIFAも試合成立を認めた。だが今世紀に入りペルー代表でスタメン出場をしたホセ・ヴェラスケスが「あの試合は普通ではなかった。奇妙なことが起こった」と告白し、実名を挙げて八百長を暴露した(当事者たちは否定)。ペルーのゴールマウスに立つのがアルゼンチン国籍を持つラモン・キローガだったので、一部の選手たちはGKを代えるように直訴したが、マルコス・カルデロン監督に跳ねのけられたという話もあり、ヴェラスケス自身は52分に代えられていた。

 そして実はアルゼンチンと決勝を争ったオランダにも重要な秘密が隠されていた。オランダの象徴的な存在だったヨハン・クライフは、欧州予選を戦い母国を本大会に導くと、あっさりと代表活動を退いてしまった。

 オランダを指揮するエルンスト・ハッぺル代表監督はバルセロナ(当時クライフが所属)へ飛び直接説得し、メディアも再三復帰キャンペーンを繰り返したが、クライフが翻意することはなかった。

 当時クライフは軍事政権に抗議するために出場を拒否しているという見方もあった。しかし、大会から30年間を経て、クライフが真実を告白した。大会前年にバルセロナの自宅に武装した複数の男たちが侵入。家族を拘束し連れ去ろうとする誘拐未遂事件があった。

「私にはサッカーより大切なものがある」

 それが2度目のワールドカップ出場を辞退した理由だった。