スポニチ

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 甲子園で敗退し、下関に戻ると自由な日々を手に入れました。就職も「大興製函(たいこうせいかん)」という大洋漁業の関連会社に決まりました。何の心配もありません。スポーツ刈りから髪の毛が伸び、母親の椿(つばき)油を付けて「七三分け」にしてました。

 父は自分がサラリーマンになったことを本当に喜んでいました。トラック運転もタクシーも収入が不安定です。息子が毎月同じ額の給料をもらえる、安定した仕事に就いたことが自慢でした。しかし、そのドラ息子はボーナスが出る前に辞めてしまったのです。

 先輩も良い人ばかりで、責任のある仕事も任せてもらっていました。会社や仕事に不満はありません。しかし、下関のダンスホールで開かれたのど自慢大会で「愛のふれあい」という沢ひろしさんの歌を歌って優勝し、歌手になりたい夢が急激に広がったのです。若さ特有の、根拠のない自信と妄想力。このまま下関で一生収まりたくない、という思いが膨らみました。

 歌手を目指し上京することに猛反対だった父に「お父さんの夢だった野球を一生懸命にやって、甲子園にも出ました。今度はオレの夢を追わせてください」と懇願しました。「譲二、分かった」と最終的に認めてくれました。驚いたことに、職場の先輩や同僚が14万円もカンパを集めてくれました。初任給が1万4000円だったので、とんでもない大金です。大船に乗った気持ちで夕方に下関を出る寝台特急「あさかぜ」に乗りました。

 最初はそのまま東京に出るつもりでしたが、突然心変わりして大阪で下車。吹田にアパートを借りて洋服の勉強をしていた友人の裕のアパートに転がり込みました。4畳半に満たない狭いアパートで、裕の彼女と3人の生活が3カ月ほど続きました。金も何もなかったけれど、毎日たわいもない夢話で仲間と大げさに笑い合っていられるだけで楽しかった。今思うと、東京に出て大人になるための予行演習の日々でした。14万円には一銭も手をつけませんでした。大阪で途中下車した理由がなかったのと同様、再び理由もなく約3カ月後に「あさかぜ」に乗り、東京に来ました。

 東京の地理など全く分からず、唯一知っていた「新宿」という場所に行こうと決めました。持ち物は14万円が入ったボストンバッグとなぜかテンガロンハット。電車を乗り継ぎ新宿に着くと、通り過ぎる人の多さに圧倒されながら街並みを眺めていました。当然行くあてもなく、新宿公園で2泊、野宿しました。ホームレスの方々とずっと一緒にいるわけにもいかず、下高井戸の知人のアパートに居候させてもらえることになりました。

 翌日は早速職探しです。歌舞伎町に出て歩いていると、和服姿の女性がガラスの自動ドアの向こうにいます。とりあえず入ってみると「いらっしゃいませ」「そうじゃないです。働きたいのですが」「店長を呼びます」。面接で「甲子園に出ました」と言うと採用決定。「美人喫茶ローザ」という店でした。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。