「ラーメン評論家」の炎上にみる 評論せずにはいられない人びとの心理 - 御田寺圭
※この記事は2021年10月12日にBLOGOSで公開されたものです
インターネットの一部界隈が大きな騒動に包まれていた。
そのきっかけは、女性店主が経営する人気ラーメン店について、店主本人がツイッターで「ラーメン評論家出禁」を宣言したことだ。
「ラーメン評論家出禁」を宣言したのは、神奈川県鎌倉市にある「中華蕎麦 沙羅善」などを経営する梅澤愛優香氏である。元アイドルという異色の経歴からラーメン業界への進出を果たしたことで大きな話題を集めたことでも知られる。氏が経営する店は連日多くの客でにぎわっている。
梅澤氏は先日、ネットのいわゆる「ラーメンオタク」から「反社とつながりがある」などと関係先に虚偽の事実を吹聴されて大きな被害をうけ、加害者を提訴したことでも大きな話題となっていた(注1)。今回の「出禁宣言」はその件とは直截的なかかわりはないものの、ラーメンの蘊蓄(うんちく)を語りたがったり、訳知り顔であれこれと上から目線で物申したがったりする一部のラーメンマニアにはほとほと嫌気が差していたようである。
梅澤氏の「出禁宣言」に対して「ラーメンオタク」や「ラーメン評論家」の界隈からは戸惑いの声があがっていたようだ。
本来、食べ手には上下も優劣もない。
ラーメン評論家はメディアでラーメンについての発信ができる存在ではあるが、食べ手のひとりであることには変わりはない。その中で店主へのマウンティングがあったとしたらそれは大きな問題である。
今回の件で、実際どんなマウンティングやセクハラ行為があったかはわからない。が、それが当事者個々人の中では解決せず、SNSを通じて公に発信され、「ラーメン評論家」という職業自体が悪者になってしまったことは、ラーメン業界にとって大変残念なことである。
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井出隊長『「ラーメン評論家の入店お断りします」あまりに悲しいTweetで見えてきた作り手と食べ手の分厚い壁』(2021年9月24日)より引用
https://news.yahoo.co.jp/byline/idetaicho/20210924-00259840
評論家の用いる「食べ手」というあまり聞きなじみのないワードは、要するに「ラーメンというのは単なる料理ではなくひとつのジャンルであり、作る側だけではなくて、実際にそのラーメンを食べて味を見極める側がいてこそ成立している」という、単なる「客」を超えた連帯意識をかれらが持っていることを示唆しているのだろう。
だからこそ今回の梅澤氏による「出禁宣言」は衝撃だったようだ。というのも「わざわざ親切心で評論や助言を行って業界の発展に貢献してきた自分たちは、作り手と同等の仲間であり、感謝されることはあれど、まさか拒絶されるなどありえないしあってはならない」と思っていたからだ。残念ながら「作り手側と対等の存在として、その店だけでなく業界全体をけん引してきた」という自負心やそれに基づく独善的な行動が、梅澤氏にはあまりにも受け入れがたかったということなのだろう。
梅澤氏の元にもまたすぐに第二、第三の評論家が現れる
本件では「セクハラ加害者」として示唆されていた人物からの「釈明文」が本人のブログで公開された。(注2)やたらと長く、なにを述べたいのかよくわからない文章であるものの、少なくともセクハラ行為について反省せず居直っているかのようなことだけは伝わってくるものであった。案の定この「釈明文」で自体が収拾するわけもなく、かえって火に油を注ぐ結果になっている。
加害者とされた人物は「このままではラーメン評論家全体のイメージが悪化するから」という「漢気(おとこぎ)」で名乗り出たつもりだったのかもしれない。しかしながら本件によって、ラーメン業界のみならず、見ず知らずの他人に対してやたらと上から目線で講釈を垂れようとする「評論家」目線を持つ人びとへの風当たりはますます厳しくなっていくだろう。
だがそれでも「自分がわざわざ親切心で教えてやっているのだから、お前は感謝して謙虚に受け入れるべきであって、反発したり拒絶したりするなど、まったくあってはならないことだ」――というスタンスの人は、これからも後を絶たない。今回の騒動の端緒となった梅澤氏の元にもまたすぐに第二、第三の評論家が現れるだろう。
「評論」せずにはいられない人の心理
――なぜなら、この世の中には、「評論」することでしか、「指導」することでしか、「助言」することでしか、他人とつながるためのきっかけをつくる術を知らない者が大勢いるからだ。
他者との「《対等》なコミュニケーション」のとり方を知らないまま年齢ばかりを重ね、つねに自分が優位に立って「教えてやり」「感謝され」「尊敬を集める」ポジションに立たなければ、他者とのつながりはもちろん、自分の居場所や存在感を確保できない者たちが、この社会には相当数いる。とくに中高年男性に顕著だ。
「評論家になる」という営為は、それによって雑誌連載や書籍を出して糧を得ているプロフェッショナルでもないかぎり、ほとんどの場合コミュニケーションが不得手な一群の人びとが「だれかとつながるための手段」として採用する最終手段のひとつなのである(アニメやマンガや鉄道などの「オタク」界隈において、かれらの会話がしばしば会話の体をなさず、一方的な知識披露の独演会に終わってしまうことと相似形である)。
たとえばラーメン店に訪れて、わざわざ店主を知識量で圧倒しようとしたり、的外れな「指導」の置き手紙を置いたりするような人間が、その他の場面でなら他者と良好な人間関係を築けている――などという可能性は、言うまでもないが極めて低い。どのような場面においても、往々にして周囲の人から少し距離を置かれ、敬遠されていること請け合いである。
さまざまな趣味の界隈に生息して、そして御多分に漏れず煙たがられている「評論家目線」の一般人は、本当は評論をしたいわけではない。多くの人と友達になりたい、友達から尊敬されたいと考えているからこそ、あえてそうしているのだ。それ以外に「他人とかかわるきっかけ」のうまいやり方を知らない、ただそれだけだ。
「望ましいコミュニケーションがとれない人」はどこにいくのか?
今回、梅澤氏がきっかけとなって多くの人が氏に同情を寄せながら行っている「評論家」への非難はたしかに妥当である。
しかしながら、今回の騒動は別の大きな社会問題の存在をはからずも示唆している。
――すなわち「(他者とフラットで良好な関係性を築くことが困難な)コミュニケーション能力の低い人びとが、いったいどのようにして現代社会で他者とのつながりを得て、自分の存在価値や肯定感を獲得していけばよいのか」という問題である。これは、以前BLOGOSに寄稿した「教え魔」をテーマにした記事でも同じ論点があることを指摘した。
コミュニケーション能力がますます重要視され、そこで暮らす人びとが他者にとって望ましい存在・望ましいふるまいをつねに求められるようになった現代社会では、「他者にとって望ましくない者・望ましいふるまいができない者」の居場所は加速度的に小さくなり、また「自分がこの社会でプラスの存在である」という実感を得られる機会も着実に乏しくなっている。
「社会的に望ましい関わりができない不快な人」の言動やコミュニケーションを加害――今回の場合でいえば「教え魔」――として定義して全社会的に糾弾して追放すればするほど、私たちの暮らす社会は、たしかに表面的にはますます快適さを増していくことは間違いない。
しかしその快適さは「他者にとって快いコミュニケーションができない人」の存在を排除し疎外し、彼らをますます生きづらくしていくことと表裏一体である。
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BLOGOS『キャンプ場にも出没か 「教え魔」が後を絶たないワケ』(2021年4月22日)より引用
https://blogos.com/article/531494/
現代社会は「望ましい形で他者とかかわれない者」に対する風当たりが日増しに強くなっている。
他者に不快感を与えるようなかかわりをする者は「迷惑な人」として敬遠されるばかりか、それを通り越して今日では「ハラスメント加害者」と認定され、積極的に排除されることすら起こりえるようになった。梅澤氏の店で出禁になったようにだ。ある店で出禁になるような人間は、やはり別の店、別のコミュニティ、別の人間関係からも「出禁」になりがちだ。
世間の人びとはそれを無邪気に歓迎している。「他人によって煩わしい思いをしなくなるのだから、なにも悪いことではない。世の中は良い方向へと前進しているのだ」――と。だが、どういうわけかこうした論調を肯定的に語る人びとは、自分のことをいつだって「他人から煩わされる被害者の側」「他人をジャッジして切り捨てるかどうかを決める側」に自分を置いて主張している。逆の立場になりうることを想像すらしない。そんな保証はどこにもないのだが。
だれもが素朴に賛同し、達成を目指している「快適な社会」は「不快感を催す人間」を疎外・排除することによって成立している。
「コミュニケーション能力の低い不快感を催す他者に煩わされない快適な社会」を際限なく追求していけば、当然ながら「望ましい人間としてのふるまい」のハードルも上昇しつづける。いずれは自分もそのハードルを越えられなくなり、「迷惑な人間」としてジャッジされる日がやってくる。
「めんどくさい他人」に煩わされない、快適な「無縁社会」の裏側
「この国は、困っている人がいてもだれも助けようとはしない」 「日本社会は、生きづらさを抱えるひとに対して冷酷だ」
――などと、この国における協力的な他者の希薄さを嘆く声が増えている。
たしかに、日本は世界でも屈指の「自己責任大国」なのかもしれない。
だが、こうした人びとが望む「本来あるべき暖かいつながり」は、残念ながらいくら嘆こうがこれからますます少なくなっていく。「他人への望ましいかかわり」を達成するための心理的・コミュニケーション能力的なハードルが高くなり続けるからだ。
「他者への望ましいかかわり」のハードルを高めれば高めるほど、たしかに評論家のような「面倒くさい他人」は現れなくなって快適だ(かりに現れても「加害者」としてみんなで糾弾し、追放することが正当化される)。しかしいざというときに手を差し伸べてくれる他人も一緒にいなくなってしまう。いや、現にいなくなりつつある。
「頼まれてもいないくせに、上から目線でアレコレ口出ししたり、ハラスメントまがいな言動をとったりする、身の程をわきまえない勘違いも甚だしい迷惑人間」だけが都合よくいなくなってくれたらいいのに――だれもがそう願ってやまない。しかし良いところ取りはできない。私たちは、そうした他人との接点を減らすために、「支えてくれる人とのつながり」を代償に捧げるほかなかった。
出典注1:元AKBラーメン店主、取引先に「反社と繋がっている」と「ウソ」の連絡され「麺オタク」を提訴へ(弁護士ドットコムニュース、https://www.bengo4.com/c_18/n_13523/)
注2:ブログbyフードジャーナリスト はんつ遠藤『梅澤愛優香さんに対する、はんつ遠藤の意見』http://hants.livedoor.biz/archives/52184019.html
