殺した男の“局部”を切り取り逃走…31歳“怪美人”が起こした伝説の事件とは《発生から90年》
いまから90年前、1936年5月18日に起きた「阿部定事件」。昭和戦前の事件を眺めて、抜きん出て後世の人々に強烈な印象を残し、伝説化している事件の一つだ。この事件の何が強烈な記憶を人々に刻み込んだのか。ドロドロした男女関係? 残虐な手口? 煽情的な報道? それらを総合した猟奇性? それだけではない。何か、時代と共鳴して、事件の当事者やメディアも想像しないような衝撃を長く社会に及ぼしたのだろう。
【実際の写真】阿部定(当時31歳)が移送中に見せた「伝説のほほえみ」。後年の写真も…この記事の写真を全て見る(全13枚)
私の母は「貞子(ていこ)」といったが、「さだこ」と間違って呼ばれるのをひどく嫌った。生前、理由を聞いたことはなかったが、いまなら分かる。事件のとき、彼女は満はたちだった。長い年月がたったいまも異様な光を放って人々を引き付ける、その事件の正体は何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全5回の1回目)
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男を殺害、局部を切り取り逃走した「美人」
その年、1936(昭和11)年は「昭和の歴史の大きな曲がり角となった年」と言われる。それはこの年の2月26日、陸軍部隊の一部が決起して重臣らを暗殺した二・二六事件が起こったためだ。この後、政党勢力は鳴りを潜め、翌年の日中全面戦争を経て戦争の時代に突入する。
翌27日、東京市(当時)に敷かれた戒厳令(かいげんれい)は7月18日まで解除されず、市民は将来への不安を胸に日々を過ごした。そんなさなかの5月19日。新聞が一斉に報じた事件は人々を驚かせた。
「舊(旧)主人の惨死體(体)に 血字を切刻んで 美人女中姿を消す 尾久紅燈(灯)街に怪奇殺人」=東京朝日(東朝)、「待合のグロ犯罪 夜會(会)巻*の年増美人 情痴の主人殺し」=東京日日(東日、現毎日)、「妖艶・夜會髷(まげ)*の年増美人 敷布と脚に 謎の血文字『定吉二人キリ』」(読売)、「爛(ただ)れた中年の情痴」=都新聞(現東京新聞)、「謎を残して行方不明」(時事新報)……。
*待合=芸者を呼んで飲食ができ、宿泊もできる店。
*「夜會巻」=長い髪を後ろでねじり上げてクシなどで止めた髪型。

事件は当初からセンセーショナルに報じられた(東京朝日)
各紙はこうした派手な見出しでそろって社会面トップの扱い。『近代日本総合年表第三版』(1991年)にも「阿部定、尾久の待合で情夫を殺害し局部を切りとり逃亡」と記載された、後世に残る猟奇殺人事件の幕開けだった。記事本文は東朝を見よう。
「定吉二人キリ」の血文字が
〈 荒川区尾久町1881、尾久三業地*内の待合で怪奇な殺人事件が発見された。同三業地の待合「まさき」*こと正木しち方へ1週間前、夜会髷に結った31〜32歳ぐらいの玄人らしい美人を連れ、50歳ぐらい、髪五分刈り、面長のいなせな格好をした遊び人ふうの男が泊まり込み、18日まで帰るのも忘れて楽しんだ。
その朝、女は外出したが、男がなかなか起きる気配がないので、不審を抱いた同家の女中、伊藤もと(33)が午後2時50分ごろ、裏2階四畳半の寝室をのぞいたところ、男は布団の中で惨殺されていた。死体は窓側西向きに仰臥し、細ひもをもって首を絞め、下腹部を刃物で切り取って殺害。布団の敷布には鮮血をもって二寸(約6センチ)角大の楷書で「定吉二人きり」*としたため、さらに男の左太ももに「定吉二人」と書かれていた。なお、左腕に「定」の一字が血をにじませながら刃物で刻んであるほか、便箋には「馬」と書かれているなど、猟奇に彩られた、非常にいたましい情景だった。
駆けつけた警視庁、裁判所の係官一行もさすがにこのありさまに戦慄を感じ、近来の怪殺人事件として直ちに尾久署に捜査本部を設け、夜会髷の怪美人をこの惨殺犯人として各署に手配。大捜査を開始した結果、同夜深更に至り、被害者は中野区新井538、料理屋「吉田屋」こと石田吉蔵(42)で、犯人は同家の元女中、埼玉県郡坂戸町、田中かよこと阿部定(31)と当局は断定し、その行方を追及中である。同女は男の所持金を持って出ている。〉
*三業地=芸者置屋と料理屋と待合の営業許可が出ている地区のこと
*「まさき」は実際は変体仮名で判決文もそうなっているが、「満佐喜」と表記した資料も多い
*実際はカタカナの「二人キリ」が正しかった
確かに極めて衝撃的・猟奇的な事件だが、報道の問題の1つは、定が切り取って持ち去った物を何と表記したかだ。東朝は記事にある通り「下腹部」だが、東日は「局所」、読売、報知、国民、都はそろって「急所」(国民は見出しは「男性」)。時事は「身体の一部」だった。
各紙とも苦慮したようだが、石川県の地元紙・北國新聞は初報の5月19日発行20日付夕刊(当時、全国紙・地方紙とも夕刊は翌日の日付をとっていた)の主見出しが「待合の殺人 睾丸持ち逃げ」、続報の20日付朝刊では横見出しで「男根持ち逃げ殺人」(「東京電話」の本文中は「急所」「切断物」)と、いまではあり得ない表記。
逮捕時などには各紙に「例の紙包み」「例の物」「“切り取り物”」「肉片」も登場した。公判で裁判長を務めた細谷啓次郎も苦心したらしく、「局部という言葉を努めて使うことにした。これでもなんとなくしっくりしないと思ったが、事件に当てはまった適当な言葉が浮かばなかったので、仕方なくその言葉を使うようにした」と著書『どてら裁判』(1956年)に書いている。
もう1人の男
東日の「相ついで家出」という小見出しの記事には「犯人さだは本年2月ごろ、吉田屋へ女中として住み込んだが、美人で様子のいいことから主人と変なうわさが立ち、二人は主人の妻女とくさんの目を盗んであいびきしていた。4月23日ごろ、さだは荷物をまとめて無断で家出し、その翌日、石田さんも金を懐中にブラリと飛び出し、そのまま便りもなかったが、1週間前、石田さんはひょっこり帰宅し、また家出したままになっていたものである」とある。
この一報の段階で各紙には、定のもう1人の男として地方の有名学校の校長が登場していた。東朝は「中京商業校長を取調」の見出しで書いている。
〈 凶行前夜の男女は夕食にビール2本を抜いて間もなく寝込んだようであったが、18日朝8時ごろ、きれいに化粧した女は「水菓子を買ってきます」と称し、待合で呼びつけの三業タクシー運転手・小林春綱の自動車で新宿へ向かい、伊勢丹横側の交差点で停車するや「ここでいいわ」と車から降り、にぎやかな新宿通りへ姿を消してしまった。
同女がさる16日、神田区淡路町2ノ8、萬代屋旅館に宿泊中の名古屋市市会議員、中京商業学校長・大宮五郎(49)に手紙を差し出した事実が判明したので、同氏につきその間のいきさつを調べに急行したが、大宮氏は18日朝、外出したまま深更に至るも宿へ帰らず、捜査本部では旅館へ刑事を派して帰館を待ち構えていたが、大宮氏は19日午前1時、市内某所から尾久署に連行。参考人として取り調べられている。〉
愛知県の地元紙・新愛知(中日新聞の前身の1つ)は初報の19日付朝刊で「中商校長も登場 帝都に獵(猟)奇の怪事件!」の横見出しをとり、大宮校長の写真だけ載せている。当時は東京を「大日本帝国の首都」の意味で「帝都」と呼ぶことが多かった。もう1つの地元紙・名古屋新聞(同)も同じ日付で「渦中に大宮中商校長」の見出し。大宮校長は定のパトロン的な存在だったが、当初は三角関係のもつれとの見方もあり、その点を強調した新聞も。
「二人はやけるほど仲がよかった」
読売は「中京商業の校長と 凶行後、日本橋で密會(会)」の見出しで、定が事件後、「日本橋某所でかねてなじみの中京商業学校校長・大宮五郎氏と会って姿をくらましたことが分かった」と記述。報知は「冷たい秋風吹き 大宮校長へ鞍替(くらがえ)の肚(はら)」の見出しで「牛を馬に乗り換えようと、吉蔵氏を殺して大宮氏の懐に飛び込もうとしたものらしい」と書いている。実際は東朝が「爛(ただ)れた情痴生活」という別項記事に載せた「まさき」の伊藤もとの証言の方が正確だったようだ。
「二人はやけるほど仲がよかった。時々女が胃けいれんを起こすと、男は夜っぴて介抱してやるというほどに睦まじかった」。
(つづく)
〈「アレを持っているな」「ええ」殺した男の“体の一部”を持ち歩き…阿部定(当時31)が逮捕直前にみせた“大胆すぎる行動”〉へ続く
(小池 新)
