殺害されたA巡査の自宅。凶行の現場は2階だった

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 昭和27年5月10日に発覚した「荒川放水路バラバラ殺人事件」は、捜査本部の当初の見立て通り、妻の犯行であることがわかった。被害者は現職の警視庁警察官――事件の背後には何があったのか、なぜ、夫を殺害し遺体を切り刻まなければならなかったのか……(全3回の第3回)

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別れを切り出しても…

 警視庁志村署のA巡査(27)が殺害、遺体をバラバラにされた事件は、遺体発見の1週間後、同居する内妻で小学校教諭のB子(26)が犯行を認め、昭和27年5月17日に逮捕された。また、共犯として同居するB子の母(51)も逮捕された。

 A巡査と一緒になったときから不満を持っていたというB子。幸せな将来を夢見てわずかな貯金を持って大阪からA巡査のもとへ上京してみると、巡査は貯金はおろか、借金を抱えている。勤務態度もよくないようだ。警察官と教師――はたから見れば、将来が約束されたような夫婦だが、実態はそうではなかった。B子は「別れたい」と切り出したが、

〈「結婚したばかりなのに、いますぐ別れるということは男の面目にかけて絶対にできない。どうしても別れるというのなら、勤めも辞めて執念の鬼になって一生つきまとってやる」
 といって、(B子に)向かって拳銃を突きつけた〉(近藤昭二著『捜査一課 謎の殺人事件簿』二見書房より)

 まだ「ストーカー」なる言葉も犯罪も一般に浸透していない時代だが、こんな言葉を言われたら、B子に抵抗する術はなかった。

殺害されたA巡査の自宅。凶行の現場は2階だった

 そして、A巡査が行方不明になった5月7日の夜――。

〈午後九時ごろ酔って帰宅した(A巡査)は当夜十時から出勤なのに制服にも着替えられないほど深く酔っていた。“どこで飲んで来たの”と聞くと、“どこで飲んでこようが生意気言うな”と怒って突き飛ばし、打ったり、蹴ったりした〉(警察文化協会『戦後事件史(警察時事年鑑特集号)』より)

 布団を敷いてA巡査を寝かせたが、この時、同居する母と弟(14)はまだ起きていた。

〈私は勝手場で洗い物をしていたが、今晩のこと、いままでのこと、将来のことなどが悪夢のように頭に襲って来て暗い気持ちになり「ひと思いに殺してやろうと決心した〉(同)

 翌8日午前1時ごろ、大阪から上京してくる際の荷づくりに使った麻縄を警棒のはしに結び、雨戸にはさんで固定した。窓際に寝ているA巡査の首に麻縄をひと巻きし、自分の足をA巡査の首にかけながら、思い切り引っ張った。

〈瞬間夫は声も立てずぐったりした。私はハッとして思わず合掌してしまった。隣の八畳間に寝ていた母が目をさました。そして言葉もなく顔をそむけて泣き崩れた〉(同)

凶行の全貌

 母親も、A巡査の素行については知っており、B子には別れるように助言をしていた。だが、まさか、このような形になるとは想像もしていなかったはずだが、「現実」を目の当たりにすると、その行動はいたって冷静そのものだった。

 気を取り直した二人は、A巡査の遺体を外に運び、酔っ払ってケンカで殺されたようにみせようかと考えた。しかし遺体は重く、二人でも運ぶのは困難だった。その晩は遺体を行李の中に入れて押入に隠し、処分方法を考えた。ここで母が「死体は細かくした方が捨てやすいし、人目にもつかないだろう」と言い、そうすることに決めた。翌8日、

〈母は一人で出刃包丁、ナタ、油紙、麻ヒモなどを買ってきた。同夜十時ごろから死体を押入から引っぱり出し、タライを下に受けて、(略)したたる血を金タライでうけるようにしぼりながら、首、手、足とつぎつぎに切り離していった。その間ほとんど無我夢中だった。その後、一つ一つを油紙、新聞紙にくるみ、麻ヒモで縛り、また押入にしまっておいた〉(同)

 9日はまず、朝から血の付いた行李を細かく裁断し、焼いて捨てた。そして午後7時過ぎ、母が首と両腕を、B子は胴体を持ち、一緒に家を出る。タクシーを探したが見つからず、母はバスに乗り、B子は勤務先の学校から自転車を借りて捨てに行った。

〈捨て場所は(近くの戸田橋ではなく)新荒川大橋と約束し、私が先についたので、すぐ捨てようかと思ったが、人通りがあり、こわくて一時間近くうろうろと付近を歩き回った末、すきを見て橋の中ほどから思い切って投げた。ドボンというあの音はいまでも耳について忘れられません〉(同)

 母娘がすべての遺体を遺棄し、自宅に戻ったのは午後10時ごろ。全身の力が抜けてしまったような感覚だったが、まだ“作業”は残っていた。翌10日の午前1時ごろ、捨て残した両足や血の付いた布などを梱包して自転車の荷台に乗せ、今度は戸田橋に捨てにいったが、この時の様子を、近くの交番の警察官に目撃されていたのである。

事件が残したもの…

「世間の方々からご覧になりますと、ずいぶんひどい奴と思われるかもしれませんが、私自身の立場としてはどうしてもこうするより他に仕方がなかったのです」

 逮捕後、B子が毎日新聞に寄せた手記の一部である。また、朝日新聞の質問にも応じており「あなたは教育者だが、子供についてどう思うか」という問いに、こう答えている。

〈別に何とも思わない。学校で一年生を受持っているが、とてもうるさくて世話がやけます。しかし別に辞めたいとも思わない所を見ると、特に子供がきらいでもないようですね。昨年人工流産をしたが、これは病気で身体がもたなかったためで、子供がほしくなかったからではありません〉(毎日新聞社『昭和史全記録』より)

 対して、被害者のA巡査だが、警視庁採用は昭和23年4月だった。前年に旧警察法が制定され、すべての市と人口5000人以上の町村は自治体警察を持ち、他の地域は国の国家地方警察の管轄となった。警視庁もこれを機に、特別区(23区)を管轄する自治体警察となり、職員を大量採用する必要があった。

〈警視庁始まって以来の約一万という大増員のため、警視庁は管下警察に人数を割当てるという非常手段でかき集めた。身元もロクロク調べず、わずか一カ月(通常三カ月)の講習で配置された。このため、その後一年の間に警察官の特権を振り回したり、酔って乱暴するなどの非行で一割強の約千名が懲戒免職になっている。(A巡査)の場合は特にひどく、浅草のテキヤをやっていたこともあり、志村署に配属後も土地の不良仲間とつき合っていたといわれる〉(前掲『戦後事件史 警察時事年鑑特集号』より)

 裁判の結果、B子は懲役12年、母は同1年6カ月だった。その後、母は刑務所で病死、B子の消息は不明である。

【第1回は「荒川に浮かんだ“首と手足のない遺体”…『被害者は現職の警官ではないか』との情報に捜査本部が揺れた昭和27年『複雑怪奇な猟奇事件』」】

デイリー新潮編集部