#5「ナイル川の水が血に変わる」「海が割れる」奇跡や災いは現実の出来事か?──加藤隆さんによる『旧約聖書』再入門【NHK別冊100分de名著】
加藤隆さんによる「旧約聖書」と「一神教」への再入門 #5
いまなお終わることのない宗教対立。そのルーツとは何なのでしょうか?
ユダヤ教で成立し、キリスト教、イスラムへと引き継がれる「一神教」的態度とは? 「何もしてくれない」神が、なぜ「神」であり続けるのでしょうか? 『NHK別冊100分de名著 集中講義 旧約聖書 「一神教」の根源を見る』では、千葉大学文学部教授の加藤隆さんと、その謎に迫ります。
「旧約聖書」「一神教」への再入門となる本書より、そのイントロダクションと第1講「こうして神が誕生した」全文を特別公開します。(第5回/全6回)
さまざまな奇跡と「十の災い」
エジプトからの脱出を実行する前にモーセは、ファラオとの交渉を行います。その際に、さまざまな奇跡が生じます。
「杖を蛇に変える」という奇跡が生じます。
これに続いて、いわゆる「十の災い」が生じます。「ナイル川の水を血に変える」「蛙をエジプトの国に這い上がらせる」「土の塵がすべてブヨになる」「アブがエジプト全土を襲う」「疫病でエジプト人の家畜が死ぬ(イスラエルの人々の家畜は免れる)」「人と家畜にはれ物が広がる」「雹(ひょう)を降らせる」「いなごの大群が襲う」「エジプト全土が三日間、暗闇になる」「人と家畜の初子(ういご)が死ぬ」。
最後の災いである「人と家畜の初子が死ぬ」では、モーセの仲間たちは、家族で家の中で子羊の食事をし、その子羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗るよう、命じられます。人と家畜の初子を殺す〈主〉は、この血の印がある家は襲わないからです。「主が、過ぎ越す」というこの出来事に注目して、後に「出エジプト」の出来事を祝う祭りが「過越祭(すぎこしのまつり)」となります。「過越祭」は、自然の運行を祝う普通の「春祭り」に、特別な意味付けを付して行われるようになったと言われています。「春祭り」は、生命の復活を祝う祭りであり、このことが、「エジプトからの解放」と重ねて理解されています。ちなみに、キリスト教では、ユダヤ教のこの「過越祭」の時期の祭りを、「復活祭」として、祭りの意義がキリスト教的に読み替えられています。
エジプトからの脱出を開始してからも、さまざまな奇跡が生じます。
「火の柱」が生じて、民を導きます。
「海」に乾いたところが生じて、民は海を横断することができるという出来事が生じます。追ってきていたエジプト軍が乾いたところに入ると、海の水が戻ってしまいます。
マラというところの苦い水が甘くなって、飲めるようになります。
荒野で飢えていた時、マナという不思議な食べ物が生じて、食糧の問題が解決します。
岩を杖で打つと、水が出るということも生じます。
モーセが杖をもった手を上げたままにしていることにより、アマレクに勝利します。
「シナイ山」で「十戒」および「契約の書」とされる掟が、神から与えられます。等々。
「エジプトからの脱出」の物語は、「出エジプト記」で終わるのではなく、その後の、「レビ記」「民数記」「申命記」まで続きます。最後の「申命記」では、民は、「ヨルダン川の向こう(西岸)」に着いています。モーセは、ここで神から与えられた長い掟を、民に述べます。そしてモーセの死についての記述で、「(モーセ)五書」が終わります。
「奇跡物語」は現実の出来事か?
さまざまな奇跡のうち、「海の横断」のエピソードは、出来事の規模が大きく、ひときわ有名なのではないでしょうか。民が渡り、エジプト軍が壊滅したこの「海」が、実際のどの「海」なのかといったことなど、この出来事については、さまざまな議論が絶えないようです。奇跡物語については、物語に記述されているほどには奇跡的・劇的ではなくても、似たような出来事が実際にあったと考えられる可能性があるものと、そのような可能性がかなり小さいと思われるものとがあると考えねばなりません。「海の横断」のエピソードは、あまりに奇跡的・劇的です。こうした物語が生じた経緯として、蓋然性がある程度は高いと思われる見方があります。
民がいよいよ「約束の地」(カナン)に入ろうとする時、ヨルダン川を渡らねばなりません。この時の物語が「ヨシュア記」に記されています。民は「契約の箱」を先頭に、進もうとします。しかしヨルダン川には、水が満ちています。ところが、「干上がった川床」が生じて、民はヨルダン川を渡ることができることになります(「ヨシュア記」三章)。ヨルダン川ならば、場合によっては、徒歩で渡ることができるようになるという可能性があります。そのような幸運に助けられて、軍を進めることができたといった出来事は、実際にも不可能ではないことになります。こうした経験の枠組みが拡大されたものが、「出エジプト」の物語の中で、「海の横断」のエピソードに発展したのではないでしょうか。
実際には「出エジプト」の出来事の時代より後世に生じたことが、聖書の物語の中で「出エジプト」の際に生じたとされることは、十分にあり得ることです。
別の顕著な例を一つ指摘します。「申命記」でモーセが述べている掟は、実は南王国で前七世紀に作られた掟集がほぼそのままコピーされたものです。モーセの演説は、聖書の物語の表面的な設定ならば、前十三世紀か、前十二世紀初めの頃のことであるべきです。モーセの時代からは五百年ほど経った後に作られた掟を、モーセが民に語っているとされていることになります。
「出エジプト」関連のエピソードをすべて紹介することはできません。しかしあと一つだけ、「バラクとバラムの物語」を指摘しておきます(「民数記」二二~二四章)。民が移動してきて、モアブにとって大きな脅威になります。モアブの王バラクは、民を呪うことをバラムという人に依頼します。バラムの言葉には力があるからです。バラムは気乗りしないのですが、バラクが執拗に頼むので、出かけることになります。三度にわたってバラムは民を見ます。しかし民を呪うことができません。なぜなら、バラムは「主が告げることだけを告げる」とされているからです。
「出エジプト」の物語では、エジプト脱出の事業を成功させるために、さまざまな奇跡が次々と生じたとされているのです。個々の奇跡物語がどれほど事実に対応しているかはともかく、こうした物語が、エジプト脱出の事業の成功が神による特別の計らいに大きく助けられたものだという認識を伝えようとしていることは確かです。
「ユダヤ教」の成立
この「出エジプト」の事件がきっかけとなって、「ヤーヴェ」という神を崇拝する「イスラエル民族(ユダヤ民族)」という集団が成立しました。つまり「ユダヤ教」が成立した、ということになります。
「出エジプト」の物語には、神がさまざまな奇跡を生じさせて、そのおかげで人々の脱出が成功したことが記されています。この時は、エジプト軍が追跡してきました。一方は、ただの元奴隷の集団で、他方は、当時の最高の文明国家の軍隊です。このような状況では脱出に成功したということ自体が、十分に奇跡的な出来事でした。しかし、脱出が成功しても、彼らは荒野で生活していかねばなりません。
こうした中で、おそらくモーセの強力な指導もあって、人々は一致して「ヤーヴェ」を自分たちの神として崇拝することにします。これは彼らが、一致協力して生活していくことの表現にもなっています。
次の図「神と民の相互関係」をご覧ください。「神」(ヤーヴェ)と「民」(ユダヤ民族)が相互に結びついた様子を示しました。
矢印が両方向になっていることが重要です。
まず「神」が「民」に働きかけています。「民」のエジプトからの脱出を、「神」が成功させました。また荒野で厳しい生活をしなければならない「民」を守るのもこの「神」です。「神」から「民」に与えられるのは、「救い」「恵み」だということができます。そのような「神」を信頼し、忠実になることを「民」は選択します。
もう一つ重要なのは、この当初の状況では、「神」と「民」の相互の選びが、どちらの方向においても排他的だ、ということです。「ヤーヴェ」は、他の誰の神でもないような神です。その神が、ユダヤ民族だけを、自分の「民」として選んでいます。「民」の側から言うならば、他の誰の神でもない神を、ユダヤ民族が自分の「神」として選んでいます。この「神」は、ユダヤ民族以外の者たちの神ではありません。
「ヤーヴェ」という神の起源については、さまざまな議論が行われていて、確定はできないようです。しかしここでは「ヤーヴェ」の起源はあまり重要ではありません。
ユダヤ民族は、エジプトから逃げた者たちです。エジプト軍に捕まらなかったとはいえ、それで危機が去ったのではありません。「荒野」は、文明世界が無関心でいてくれる可能性の大きな地域です。言い換えるならば、文明世界から放棄されているような地域です。このような領域にユダヤ民族がとどまらねばならないのは、彼らが文明世界に戻ることができないからです。文明世界とは、実際には、エジプトのことです。この時のエジプトとの関連において彼らは、「脱走者」であり、いわば犯罪者です。エジプト側から見れば彼らは、「無法者」「アウトロー」になることを選んだ者です。一方のユダヤ民族側から言うならば、エジプトは「敵」です。
ユダヤ民族を守る神は、エジプトやエジプト人、あるいはエジプトに従うような者たちを守る神ではあり得ません。「ヤーヴェ」が起源がよく分からないような神、体制側でない神であるということが、この時のユダヤ民族が置かれた状況によく対応しています。
「出エジプト」という、はっきりとした「反エジプト的行動」において、「ヤーヴェ」という「エジプト的でない神」が自分たちを救い、そして守ってくれました。そして「エジプト」という文明世界に戻ることのできない自分たちが生き延びるには、この神を選ぶという立場を維持するしかありませんでした。このためにユダヤ民族は、「ヤーヴェを選ぶ」という立場であり続ける、ということになりました。ユダヤ民族がヤーヴェと結びついているという形は、余儀のないものでした。そしてこの形において、ユダヤ民族はとにかくも存続するのです。
本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書』では、
・第1講 こうして「神」が誕生した
・第2講 「創造神話」の矛盾
・第3講 人間は「罪」の状態にある
・第4講 なぜ神は「沈黙」したのか
・第5講 神の前での自己正当化
・第6講 「沈黙」は破られるのか
という全6回の講義を通して、旧約聖書という一神教の根源を探っていきます。
■『別冊 NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書 「一神教」の根源を見る』(加藤 隆 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における「旧約聖書」からの引用は著者による訳です。
加藤 隆(かとう・たかし)
1957年生まれ。ストラスブール大学プロテスタント神学部博士課程修了。神学博士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了。現在、千葉大学文学部教授。専門は、聖書学、神学、比較文明論。「神的現実」(ディヴィニティ)と諸文明の関係についての関心からスタートして、「愛」の現実、「美」の現実へも関心が広まってきた。著書に、La pensée sociale de Luc-Actes, Presses Universitaires de France, Paris, 1997、『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(大修館書店、1999)、『一神教の誕生』(講談社現代新書、2002)、『旧約聖書の誕生』(筑摩書房、2008/ちくま学芸文庫、2011)、『歴史の中の『新約聖書』』(ちくま新書、2010)、『武器としての社会類型論』(講談社現代新書、2012)など。
※すべて刊行時の情報です。

