J1では276試合で主審を務め、昨季限りで勇退した佐藤元審判員。(C)J.LEAGUE

写真拡大 (全3枚)

「審判員」。サッカーの試合で不可欠ながらも、役割や実情はあまり知られていない。例えば、「審判員」と法を裁く「裁判官」を同等に語るなど、本質の違いを見かけることもあれば、「審判員にはペナルティがない」という誤った認識を持っている人も少なくはない。

 罰するために競技規則を適用しているわけではなく、良い試合を作るために競技規則を適用していく。それが審判員だ。

 そんな審判員のインタビューを、『サッカーダイジェストWeb』と『週刊レフェリー批評』(株式会社ダブルインフィニティ)が前編と後編に分け、隔月で連載していく。

 第4回は昨年Jリーグ担当審判員を勇退し、現在は日本サッカー協会(JFA)審判マネジャーである佐藤隆治氏に国際審判員についてインタビューを行なった。

取材・文●石井紘人@targma_fbrj

――◆――◆――

――サッカーを始めたきっかけを教えてください。

「私が通っていた名古屋の小学校は、一学年に2クラスしかない小さな学校でした。人数が少ないこともあり、男子は春から夏は野球、夏休み期間は水泳、秋に陸上大会があって、その後の冬から春はサッカーとひとつに絞らずにスポーツをしていました。

 小学校5年生からは本格的にサッカーを始めましたが、野球のほうが好きだったんですよね。母親が言うには、低学年の時はサッカーボールが怖くて逃げ回っていたらしいです(笑)。全然覚えていないんですけど、『ボールが怖い』って言っていたらしくて」

――(笑)にもかかわらず、サッカーにハマったのは?

「ピッチャーをやっていた時に肩を壊して、しばらくボールを投げられなかったのがひとつ。もうひとつは中学校に入って、部活を絞らないといけなくて、野球部に入部すると坊主にしないといけない。坊主が嫌だから、野球ではなくて、サッカーを選んだ感じです(笑)」

――サッカー部ではどのポジションでしたか?

「身体は大きかったですし、足も速かったのでFWでした。中学時代は市大会で負けて、県大会に進めませんでした。高校時代は県大会に進んだのですが、一回戦で敗退。尾張地区の選抜に入ったこともありましたけど、並の選手でした」

――進学した筑波大学サッカー部は凄い選手層ですよね。同期にJリーガーもいると思います。

「はい。5軍までありました。私はトップチームには上がれず、Bチーム止まり。同期は、現在は川崎フロンターレのコーチの戸田光洋(元FC東京など)、徳島ヴォルティス強化部の谷池洋平(元徳島など)、福島ユナイテッドFCスタッフの井上敦史(元鳥取など)、北陸大学監督の西川周吾(元水戸など)です。

 彼らを見て、FWではなくて、ポジションを変えようと思いました。私、右利きですけど、左足が器用なほうだったんですよね。筑波大学が、左サイドバックが手薄だったので、左サイドバックにコンバートしたのですが、それでもトップチームには上がれませんでした。

 さらに、左サイドバックに一学年下に東京ヴェルディユースから羽山拓巳(元東京Vなど)が入部してきて、勝てないのを悟りますよね。その翌年には羽生直剛(元千葉など/元日本代表)も入ってくると、どんどん敵わなくなってくる。それでも、そんな環境で切磋琢磨できたのは楽しかったですし、今考えても良い進路だったと思います」
 
――その後、私が以前聞いたお話では、教員になって、チームの指導をするなら審判員の資格を取らないといけないため、審判資格を取得。そして、日韓ワールドカップでレフェリーを務めた上川徹(現・JFA審判マネージャー)さんの講演を聞いて、審判員への道を意識された。同時に、サッカーダイジェスト誌の「レフェリーカレッジ生徒募集」の記事を見て、Jリーグの審判員を目ざすことになったと仰られていました。