中村俊輔(横浜FC)インタビュー@後編

 3歳の頃からサッカーボールを蹴り始め、桐光学園を卒業後に横浜マリノスと契約し、44歳になる今年、中村俊輔は横浜FCでプロ26年目のシーズンを迎える。

「サッカー選手って、いろんな終わり方があるじゃない? 戦力外通告みたいなのもそうだし、ケガが理由の人もいる。やめるタイミングって、自分のなかであるから。やめなくていいなら、ずっとやめなくていいでしょ。だけど、次は指導者もやりたいし。それはタイミングって言うか、人それぞれだからね」

いつか現役生活を終えたら、指導者になりたい。中村はセルティックで英国を沸かせている頃から、そう話していた。

◆前編はこちら>>キング・カズ「サッカー、楽しいな」の言葉に勇気をもらった


新春の初蹴りを笑顔で楽しむ中村俊輔

 欧州から日本に拠点を移して12年。横浜F・マリノス、ジュビロ磐田、横浜FCと3クラブを渡り歩くなか、栄光も挫折も味わった。

「ここまでくると『やれる限りはやりたい』とか、そこはあまり大事ではない。自分が望む結果が出た、出ない、もうダメだ、ダメじゃないと決めるのでは、もったいないから」

 40歳を過ぎて横浜FCにやってきて、故障を抱えているわけでもないのに"ベンチ外"という状況を初めて体験した。2010年W杯南アフリカ大会のような屈辱だったが、置かれた立場で全力を尽くした。

「ベンチ外の選手って、その時にグラウンドに出ているコーチやスタッフによって、やる気が全然変わるんだよね。やっぱり、ひとりのメンタルだけでは萎えちゃう時もあるから。

 トレーナーが外に出てボール拾いをしてくれたり、ホペイロが水を用意してくれたり、環境を作ってもらえると『やらなきゃな』ってなる。自分だけでは立っていられない時があるから、お互いで鼓舞し合って、『来週はメンバーに入ろうぜ』みたいな感じでガッてできる。そういうのを見られたのはよかった」

 チーム一丸。そう口にする指導者は日本全国に数多くいるが、ただ号令をかけるだけではチームはひとつにならない。大切なのは、そこにいる者たちが自然と同じ方向を目指せるように環境を整えていくことだ。

【樋口監督にかけられた言葉】

 晴天に恵まれた1月4日。都内近郊のサッカー場で"初蹴り"を行なう中村と一緒に練習しようと、J1の主力級やJ2の若手、地域リーグの選手がやって来た。サーキットトレーニングは中村自ら内容を考え、個人契約するトレーナーが全選手をサポートした。

 午前・午後の二部練習を終えると、取材中のフォトグラファーに中村が歩み寄る。「ばっちり撮れましたか? 高くジャンプしているカットでも撮りますか?」。ふとした冗談に周囲は和み、自然とポジティブな空気が漂った。

 練習後に食事に行けば、目をかける若手に前向きな言葉をかけていく。中村の小さな気配りにより、その場にいる全員にとって、各々の仕事をしやすい環境ができていた。

 中村自身、指導者にかけられた何気ない言葉が血肉となり、ここまでやってくることができたという。特に大きな力をもらったひとりが、中学時代にマリノスユースを率いていた樋口靖洋監督だった(現ヴィアティン三重監督)。

「身長なんていつか伸びるから、筋トレなんかしなくていい。それより、こういう股抜きがあるんだけどさ......」

 中学1、2年の面談で、そう声をかけられたことをよく覚えている。

 周囲より成長期の遅い中村に対し、樋口監督はもっと先を見ていた。今は技術を磨いておけば、将来、状況を打開する武器になるはずだ。プロになった中村が1対1の場面で、ボールを足裏で引いてアウトサイドに出してから相手の股を抜くテクニックは、当時、樋口監督に教わったものだという。

「樋口さん、褒めちぎってくれるのがデカかったよね。プロになってからもそうだけど、俺、何も言われないタイプだったから。何気ない言葉でパって道が開ける時があるから、俺もそういう指導者になりたい気持ちがあるよね」

 いつか現役生活を終えたあと、中村には指導者としての野望もたくさんある。自身の経験を日本サッカーに還元したいとか、J1チームを率いてシャーレを掲げたいなどという壮大な目標ではなく、もっと根底にあるものだ。

【そもそも指導者って何だ?】

「中学生や高校生、小学生にも教えたい。プロは勝つサッカーをどうやってやるかだし、使ってもらえれば『あの監督、よかったな』ってなるだけだから。それに言いすぎると、『あの人はそれでできただろうけど、俺らにそれを押しつけるなよ』ってなるし。高校生、中学生、小学生に押しつけるつもりはないけど、何気なく言ったことでパッと道が開けるから。でも、そもそも指導者って何だろうね?」

 その語源をたどると、英語の「coach」はハンガリー語の「kocsi」=「馬車」が由来だ。だから一般的には、指導者の役割は「導くこと」や「連れていくこと」だとされる。

「B級のレベル(アマチュアレベルが指導対象)だと、『教える』ではなく『気づかせる』とか言うじゃん? でも、ある程度は教えてもいいと思う。自分で気づくまで我慢して待つと言っても、その間に気づかなかったら、その選手はどうするんだって話になるから。学校の先生や会社の偉い人がどうやっているかも興味あるね」

 中村には、以前から関心を持っている指導者がいる。2004年から2011年までプロ野球の中日ドラゴンズを率い、すべての年でAクラス入り、4度のリーグ優勝と2007年には日本一を達成した落合博満だ。

「落合さんは批判されるし、なかには嫌う選手もいるかもしれないけど、"勝つ監督"なんだよね。選手だけでなく、記者に対しても『お前、毎日来ないのに、何で書けるんだよ?』とか、本当に細かいところまで見ている。俺もそっち系だな。

 選手をよく見ていたら、顔つきからメンタリティ、やる気があるとかわかるじゃん? でも、それで『あいつ、声出してねえな』『やる気ねえな』とアラを探すのではなく、そこからどうしていくかだよね」

『察知力』という著書があるように、中村はふだんから周囲をよく観察している。たとえば車のハンドルを握っても、細かいところまで注意を凝らしている。おそらくそうした姿勢が、グラウンドで絶妙なパスコースを見つけ出すことにも通じるのだろう。

【アンダー12までが本当に大事】

 では、ひと足早く指導者目線に立ち、サッカー少年・少女たちが中村のようにいつか大きく羽ばたくためには、どんなことが大事だろうか。

「教育者みたいになっちゃうけど、やっぱり誠実さとか謙虚さとかじゃない? サッカーに対してというかね。そのあとは我慢強さとか、忍耐とか出てきちゃうけど。結局、全部はメンタルだから」

 そう語ると、中村は時計の針を大きく巻き戻した。

「俺が小学生の時によかったのは、全体練習前の30分は個人練習で、ボールでダブルタッチとか、ドリブル練習とか、足の裏でずっとくねくねやっていたことだね。楽しい練習メニューではなかったけど、今になって基本練習をずっとやっていたことがよかったと思う。それが染みつくじゃない? だから小学校、アンダー12までが本当に大事だなと思う」

 当時の指導者は「ミスは許す。さぼりは許さない」というタイプで、「怒られるのが怖いから練習していた」と中村は振り返る。それでも必死で取り組む過程で技術が磨かれ、メンタルにも結びついた。

「さぼりっていうのは、自分に負けたってことでしょ? たとえば、『暑いから走れなかった』というのは許されない。ただ、『トライしたミスは全然いいぞ』っていつも言ってくれた。俺にはその監督がすごく合ったんだよ。勝ちたいとか、負けたくないとかにとらわれるような監督ではなかったから、俺にはすごくよかった」

 44歳を迎える2022年。正月の自主トレではふた回り近く年下の選手たちと一緒に走り、ボール回しではJ1の主力級を上回るテクニックを見せていた。コツコツと積み上げてきた技術が土台にあるからこそ、周囲がユニフォームを脱ぐ年齢になっても第一線に立ち続けている。

 いつか"その時"はくるだろうが、今から指導者になるための準備をしているわけではない。中村のサッカー人生は、"現役引退→指導者転身"のように明確な区切りがあるのではなく、一本の道で続いているようなイメージだ。

【栄光も挫折もすべて己の糧】

「いろんなチームでいろんな経験をさせてもらったから、いろんなことが見えてくるじゃん? こういうタイミングで指導者がこの言葉をかけると選手は覚醒するんだなとか、逆に何も言わないほうがいいんだなとか。ほとんど後者のパターンだけどね。選手自身で考えてやったほうが、特に若いヤツは爆発的に伸びたりするから。

 監督は自分に結果がのしかかってくるから言っちゃうけど、俺なら『ああやれ』『こうやれ』とは言わない。『こういうエリアでこうやると、もっとよくなるんじゃない?』とかは言うよ。そういうのは長くやって、いろんなものを見てきたからこそ感じるよね。今は、ため込んでいるって感じ」

 40歳を超えて続く現役生活は、自身にとって何よりの宝だ。栄光も挫折も、すべて己の糧になっている。

 中村俊輔のサッカー人生の挑戦は、まだまだ先へと続いていく。