豊島区・高野之夫区長「『消滅可能性都市』と指摘された後、危機意識を共有し、まちづくりに打ち込んできた」
1937年12月東京都生まれ。60年立教大学経済学部卒業。83年豊島区議会議員(2期)、89年東京都議会議員(3期)、99年豊島区長に就任。
ピンチをチャンスに、政策を一大転換
─ 高野さんは豊島区で生まれ、育っており、区に対する愛着は人一倍のものがあろうかと思います。今は「国際アート・カルチャー都市」として存在感を高めていますが、2014年に日本創成会議が発表した「消滅可能性都市」に東京23区で唯一入り、区民に衝撃を与えましたね。
高野 日本創成会議は2010年から2040年にかけて、20~39歳の女性が50%以上減少すると推計された自治体を「消滅可能性都市」とし、おっしゃるように23区で唯一、豊島区が指摘を受けました。これは大きなショックでした。
豊島区を代表するまちである池袋は戦後、「怖い」、「汚い」、「暗い」といったイメージを持たれていましたが、そのイメージを変えるのが私の役目だと考えてきました。
私は区議会議員から都議会議員になり、区長に就任しました。まちのイメージを変えるという思いがあったから、区長にまでなることができたのだと考えています。一生懸命、いいまちをつくるために頑張って、人口が増え、若い方も多く訪れるようになっていました。私としては努力した甲斐があったなと思った矢先に、消滅可能性都市と指摘されたわけです。
─ 指摘を受けて、どう感じましたか。
高野 このまま甘んじていたら、何のために区長をやってきたんだと。消滅可能性都市が豊島区の代名詞になってしまったら、一生イメージを変えることができません。そこでこのピンチをチャンスに変えるために、思い切って政策転換をしようと決めました。
─ 高野さんが区長に就任した時も、豊島区は財政が厳しい状況に置かれていたとか。
高野 ええ。私は平成11年(1999年)に区長になりましたが、借金は一般会計とほぼ同額の872億円あるのに対し、貯金はたった36億円しかない状況で、まさに財政破綻の危機にありました。
そこから身を切るような思いで借金を減らし、貯金を増やすことに取り組んだ結果、ようやく貯金が上回り、バランスの取れた財政状態となりました。区長就任から実に14年目のことです。
─ 企業で言えばリストラにも取り組んだと。
高野 3000人いた職員は2000人に減らした他、全職員の給与を減額、施設の統廃合など、痛みの伴う行財政改革に取り組みました。ただ、「あれもダメ、これもダメ」では豊島区民に夢がなくなりますし、縮こまってしまいます。どんなに財政状況が悪くても、区民の心が豊かにならなくてはいけません。そこで区政の中心に「文化」を置くことにしたのです。
─ 区民の反応はどうでしたか。
高野 はじめは叩かれました(笑)。「文化でご飯が食べられるのか」と。しかし、文化には未来や平和を創り、人々の心に希望をもたらす力があります。私は終始一貫、どん底の時もぶれることなく「文化によるまちづくり」を訴え続けてきました。
そして、消滅可能性都市と指摘を受けた時も「子どもと女性にやさしいまちづくり」など4つの柱と、豊島区として明確な都市像を打ち出すため、世界を視野に置いた「国際アート・カルチャー都市構想」を発表しました。消滅可能性都市を乗り越えて、持続発展する国際文化都市を創り上げていこうと。
これらの取り組みが功を奏して、2014年から5年間で納税義務者数は2万人を超える増加があり、区民税収入は約43億円増えました。まちが変わったからこそ、人口増や区民税の収入増に結びついたのです。
