センターフォワード、センターバック、ゴールキーパー。昔からサッカー界では、ゴールに近いエリアを仕事場にするプレーヤーの出来が勝敗を左右すると言われている。日本は長らく、このポジションを課題にしてきた。

"高さ"と"強さ"が欠かせないポジションの人材不足で、悔しさを味わったことは幾度もある。記憶に新しいところでは、2018年のロシアW杯の決勝トーナメント1回戦。日本代表はベルギーから2点のリードを奪ったものの、その後相手の高さに屈してしまった。


初めての代表戦でハットトリックを決めた平山相太だったが...

 日本サッカーが渇望する、自陣と敵陣での「ゴール前の高さ」。森保一監督が日本代表を率いてから守備の大型化は進み、189cmの吉田麻也に加え、GKに197cmのシュミット・ダニエル、CBに188cmの冨安健洋が台頭し、ようやく世界基準に達しつつある。

 一方、センターフォワードはといえば、ポストプレーの巧みな大迫勇也がいるものの、身長は182cm。日本人の平均からすれば大柄だが、世界基準から見れば決して「大型FW」とは言えない。

 190cmに迫るようなFWの台頭が待たれる日本サッカー。だが、過去を振り返ればデビュー当初に「期待の大型FW!」と騒がれた選手は少なくない。今回はそんな彼らの足跡をたどってみたい。

 日本サッカーの大きな転機のひとつに、1993年8月に日本で開催されたU−17世界選手権(現U−17W杯)がある。1985年に第1回大会が行なわれ、5大会目にして初めて本大会出場となった日本は、当時国見高を率いていた小嶺忠敏監督のもと、中田英寿、宮本恒靖、松田直樹、戸田和幸などが躍動した。

 そのチームで中心選手だったのが、194cmの船越優蔵である。高校1年から名門・国見高でレギュラーを張り、U−17日本代表では船越が競り勝ったボールに中田や財前宣之が詰めてゴールネットを揺らすパターンでベスト8まで勝ち進んだ。

 当時、日本サッカー協会の強化委員だった田嶋幸三(現・会長)は、船越に対して「2002年のW杯で日本の核になれるように成長してほしい」と期待をこめた。

 しかし、9年後に行なわれた自国開催の2002年W杯の舞台に、中田、宮本、松田、戸田らは中心選手として立ったものの、そこに船越の姿はなかった。

 船越は高校卒業後にガンバ大阪へと進み、入団直後の1年間はオランダ2部リーグのFCテルスターにサッカー留学。帰国後は飛躍を期待されたが、チームの助っ人パトリック・エムボマの壁を越えられなかった。

 1999年からベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)、2001年の大分トリニータを経て、2002年から5シーズンをアルビレックス新潟でプレー。新潟時代は3度のアキレス腱断裂から這い上がった。2007年から3シーズンを東京ヴェルディで過ごしたあと、現役最後の1年は当時神奈川1部リーグだったSC相模原に所属した。

 今年6月で44歳になる船越は、現在JFAアカデミー福島で指導者となり、日本代表に到達できなかった自身の経験を糧に後進の育成に力を注いでいる。

 その船越から8年後、再び国見高出身の大型FWに注目が集まった。190cmの平山相太だ。

「アジアの大砲」として日本代表で活躍した188cmの高木琢也の18歳下、1977年生まれの船越の8年後輩になる平山は、高校サッカーで圧巻の活躍。国内外のクラブから多くの誘いを受けたが、卒業後は筑波大に進学した。そして大学2年時の2005年8月にプロ入りを決断し、オランダリーグ1部のヘラクレスでプロデビューを果たす。

 1年目はチーム最多の8得点。2006年1月にはFIFA選出の「ベスト・ヤング・ブレーヤー・オブ・ワールドカップ2006」にノミネートされ、世界で通じる大型FWとして期待が高まった。しかし、2006年W杯ドイツ大会の日本代表メンバー入りは叶わなかった。

 2年目は監督交代で出場機会が減ったことにより、2006年9月にFC東京へと移籍。9月30日のアルビレックス新潟戦に先発出場してJリーグデビューを飾り、北京五輪出場を目指すU−22日本代表でも大車輪の活躍を見せた。

 だが、その後は鳴かず飛ばずの状況が続き、2008年北京五輪代表メンバーから落選。19歳で出場したアテネ大会に続いての五輪出場はならなかった。

 2010年1月、平山はついに日本代表デビューを果たす。アジアカップ最終予選・イエメン戦で初招集され、初出場でハットトリックを達成して逆転勝利に導いた。しかし、この活躍で岡田武史監督からその後も招集されたがチャンスをモノにできず、2010年W杯南アフリカ大会の代表入りも逃した。

 結局、平山はJ1リーグ通算168試合33得点の記録を残して、2017年かぎりで現役生活に終止符を打った。日本代表歴は2010年の4試合4得点のみ。そのポテンシャルを考えれば寂しい記録だが、大型FWと期待された選手のほとんどが日本代表には辿り着けずにユニフォームを脱ぐことを踏まえれば、まだいいほうかもしれない。

 平山より3歳上の1982年生まれの田原豊も、激しい好不調の波があり、プロ入り後伸び悩んだ選手だ。鹿児島実業高時代は187cmの高さと当たり負けしないフィジカルの強さで、1学年上の松井大輔と2トップを組んだ1999年の全国高校選手権では強烈なインパクトを残し、2001年ワールドユース(現U−20W杯)アルゼンチン大会でもエースを務めた。

 高校卒業後は横浜F・マリノスや京都サンガ、湘南ベルマーレなどでプレーし、J1リーグ戦通算95試合13得点。「和製イブラヒモビッチ」「和製クライファート」と異名を取りながらも日本代表を経験することなく、2015年にJFL鹿児島ユナイテッドでのプレーを最後にユニフォームを脱いでいる。

 1987年生まれで現在はJ3藤枝MYFCに所属する188cmの森島康仁も、ユース年代で残したインパクトを越えられていない選手だろう。2007年U−20W杯ではスコットランド戦で先制点を決めると、当時流行っていた「ビリーズブートキャンプ」のパフォーマンスを披露し、一躍人気者となった。

 その森島がA代表入りしたのは2008年10月。この年7月に出場機会を求めて移籍した大分でのパフォーマンスが評価された。そして、出場機会のないまま終えたウズベキスタン戦が今のところ最後の日本代表になっている。

 高校サッカー界で注目された彼らの一方で、クラブのユースで育った大型FWがトップチームを飛び越えて海外クラブに渡ったケースもある。だが、それも期待どおりの活躍には至っていない。

 1991年生まれで195cmの指宿洋史は、柏レイソルU−18所属時にスペイン人指導者の目に止まり、2009年1月にスペイン2部のジローナに入団。そこから2014年までスペインの2部や3部で経験を積んだ。

 しかし、海外でのブレイクには至らず、2014年にアルビレックス新潟に移籍。ジェフ市原・千葉、湘南を経て、今季は清水エスパルスでプレーしている。

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 文部科学省の『令和元年度 体力・運動能力調査』(令和2年10月公表)によれば、日本人の20歳〜29歳の平均身長は171.75cmとなっている。

 190cm級が次々と誕生する土壌ではないが、大型サッカー選手がまったくいないわけではない。

 ユース日本代表の各年代を見渡せば、U−17年代には189cmの小林俊瑛(大津高)、U−18年代には192cmの鈴木倫太朗イブラヒーム(徳島ヴォルティス)、U−20年代には191cmの栗原イブラヒムジュニア(清水エスパルス)や189cmのブラウンノア賢信(水戸ホーリーホック)といった次代の大型FW候補がいる。

 サッカー界には、「CBはFWが育て、FWはCBが育てる」という格言がある。大型CBが育つようになってきただけに、世界のトップレベルで通用する大型FWが出てくる日も遠くないのかもしれない。