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美女バレーボーラー益子直美の今 後編

 美女バレーボーラーとして人気を集め、日本代表でも活躍しながら、25歳で現役を引退した益子直美。その後は順調にタレント活動をこなしているように見えたが、決して平たんな道ではなかった。

 芸能界で生き残るための決意、結婚後の不妊治療、心臓の手術、独自の「怒らない大会」の開催。さまざまな経験を経てきた益子が、この先に描いているビジョンとは。


怒らないことをルールにした独自大会を開催している益子直美 photo by Tanaka Wataru

――現役を引退後、まったく考えていなかったという芸能界に進むきっかけは?

「引退してイトーヨーカドーでコーチをやっている時に、テレビ局の方からスポーツ番組の出演依頼がきたんです。現役時代には、試合後の挨拶もまともにできなかったから『無理です』と言ったんですけど、結局は会社命令で引き受けたんですよ(笑)。バルセロナオリンピック(1992年)がある年だったので、バレーだけでなく他のスポーツのレポートなどもやらせていただきました。

 そこで初めてバレー以外のスポーツに触れてびっくりしました。インタビューの答え方、競技に対する考え方、練習法などすべてが新鮮で、選手たちがすごく大人に見えたんです。バレー界にあった門限もなく、さまざまな世界の方と交流している姿を目の当たりにして、『なんてバレーボールは閉鎖的なんだ』と。もっと他の世界を知りたいと思って、1年でコーチをやめて芸能事務所に入りました」

――その後は、スポーツに関連していない番組以外も積極的に出演していましたね。

「基本はどんな仕事にもチャレンジするというのがモットーでした。CDや写真集を出したり、映画に出演したり、アナウンサー学校のようなところで勉強したり......。駆け出しの頃のお給料は、会社員時代のほうがよかったですよ。貯金を切り崩しながら、テレビに出るためのジャージ以外の服を買っていたのを思い出します。

 とにかく業界で生き残るために必死でした。私は選手としてオリンピックに出場できなかったんですが、それでプライドがなかったからというのも大きいでしょうね。テレビ局のスタッフさんが、例えば中田久美さんになら『頼みづらい』と躊躇しそうなことも、私だったら『ハイ、やります!』と言えますから」

――中田久美さんは日本代表で共に戦ったこともある先輩ですね。現在は女子バレー日本代表の監督を務めていますが、タレント時代には共演がありましたか?

「旅番組で共演したことをよく覚えています。『駅弁の旅』みたいな番組で、芸能界では私が先輩でしたから、お弁当の紹介などを『私がやります!』と意気込んでいたんです。おかずをひとつずつカメラに向けて説明し、『じゃあ食べましょう。本当に美味しそうですね!』と話を振ったら、『早く食べな!』と言われて(笑)。『はい!』と背筋がピーンと伸びました。すごく久美さんらしくて、大爆笑でしたよ」

――2006年に結婚した時には、相手が12歳年下のプロの自転車ロードレーサー・山本雅道さんで、「年の差婚」が話題になりました。

「2002年に主人に取材をした時、向こうから声をかけてくれたんです。彼は当時、活動拠点だったイタリアから日本に帰ってきたばかりで、『女性には声をかけなきゃ失礼』という感じだったらしいんですけど(笑)。私はそういうのに慣れていなかったので、すごく嬉しくなってしまって。最初は、ひと回り年下だとはわかりませんでしたけどね」

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――その4年後に結婚してから、不妊治療に取り組んだそうですが。

「結婚した時が40歳で、治療を始めたのは42歳からです。『私が45歳になるまで続けよう』と2人で決めました。結果、子どもを授かることはできず、45歳の誕生日に治療に関するものを全部捨てて、当時住んでいた東京から神奈川の湘南のほうに引っ越しました。東京にいるとすぐに病院に行けてしまうし、『主人に内緒で治療を続けようか』という考えも頭をよぎってしまったので」

――実際に引っ越してみていかがでしたか?

「すごくよかったです。友達と気軽にお酒を飲んだりすることはできなくなりましたが、変な"しがらみ"もなくなった。不妊治療の最中は、いつでも病院に行けるように仕事を抑えていたんですが、自分のペースで再開しました。

 3年前には心臓の手術(心房細動)をして、より『無理したくない』と思うようになりましたね。事務所の社長もその考えを理解してくれて、仕事量を調整していただいています。心臓の手術をした後には、イトーヨーカドー時代の後輩だった"マッチョ(益子と共に美女バレー選手として人気だった斎藤真由美の愛称)"が久しぶりに連絡をくれて、会いにきてくれました。本当にかわいい後輩ですし、今後は彼女とも何かできたらいいですね」


同時期に美女選手として人気だった齋藤真由美(右)と表紙を飾った益子(左) (『バレーボールマガジン』提供)

――2015年から、監督が怒らない「益子直美カップ」という、小学生のバレーボール大会を福岡で主催していますね。

「引退してから、バレーに関する仕事はなんとなく避けてきたんですけど、何かしらの形でバレーに関わる人たちを『応援したい』という気持ちはあったんです。そこで2006年にゲイの方たちのための大会を開催しました。現在よりもLGBTの方への理解は進んでいませんでしたが、真剣に練習しているのに、その方たちには目指す大会がなかったので。東京を中心に開催していたのが話題になり、台湾やシンガポールなどからも選手が来るようになりました。

 その大会が10年目を終えた後に、『小学生の大会をやってほしい』という話があったんです。それで福岡での大会開催を進める際に、参加するチームの監督たちに伝えた特別ルールが、『選手を怒ってはいけない』でした」

――そのルールを設けた理由は?

「小学生を指導する現場を見る機会が何度かあったんですが、指導が厳しい現場が多く、見ていて心が苦しかったんです。私は、小学生の段階では『うまくなりたい』という気持ちを大切にすることが大事だと思っています。勝敗を競う大会はいっぱいあるけど、そうではない『楽しむ場所』を作りたかったんです」

――大会を開催する際に苦労したことなどはありますか?

「苦労ではないのですが、いろんなことを勉強しましたね。大会を始めたばかりの時、参加チームの監督のひとりから『怒らないなら、どんな声かけをしたらいいの?』と聞かれたことがあり、具体的なことを答えることができなかったんです。(前編で話したように)私も子どもの時から厳しい指導を受け、怒られすぎて自信を失っていた経験があったからかもしれません。

 そこから、スポーツメンタルコーチング、アンガーマネジメント、ペップトーク(短い激励のスピーチ)といったことを勉強しました。ちゃんと子どもたちのやることを受け止め、褒めながら意欲や能力を伸ばしていく。そういうところを学ぶきっかけになりました」

――そういった大会を続けながらだと思いますが、さらに先のキャリアについてどう考えていますか?

「これから60歳に向かっていく上でのビジョンは描けていますよ。まずは大学に入って勉強がしたいです。女子大生になるのもいいですよね(笑)。新型コロナウィルスの影響もあって難しいかなと諦めかけていましたが、オンラインで学べるなら挑戦してみようと思っています」

――描いているビジョンとは、具体的にどんなものですか?

「恥ずかしいので少しだけ言うと、『怒る人を、きちんと怒る人』みたいな感じでしょうか。子どもたちのスポーツ環境を少しでもよくするための活動をしていきたいです。先ほども言ったように、指導者の方たちに『怒ってはいけない』と言うだけではいけないとも思っています。

 怒りがどこから来るのかということを学んでいくうちに、ボキャブラリーが少ない人が、言葉ではなく感情で人に当たってしまうことがわかってきました。6年間行なってきた大会や、別の機会があった時に、こちらから提案する指導方法を納得してもらえるだけのものを、私が持っていないといけない。

 同じようなことを考えているのは私だけではないですし、そういった人たちとも協力しながら徐々に浸透させていきたいですね。子どもたち、LGBTの方たち、すべての人にとってスポーツをする環境をよくするために頑張っていきたいです。あ、もちろん無理をせず、ということも忘れずに」