2020年春に山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」(東京都港区)が誕生する。駅名はひろく公募されたが、JR東日本は人気順位でダントツ1位だった「高輪」を採用せず、130位だった「高輪ゲートウェイ」とした。なぜそんなことになったのか。地図研究家の今尾恵介氏が解説する--。

※本稿は、今尾恵介『地名崩壊』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

写真=時事通信フォト
報道関係者に公開された新駅「高輪ゲートウェイ駅」のJR京浜東北線ホーム=2019年11月16日、東京都港区 - 写真=時事通信フォト

■ダントツ1位だったのは「高輪駅」だった

山手線が走る線路(東海道線)に約半世紀ぶりの新駅ができるということで、駅としては珍しいほど大きな話題になった。駅名の決定に際してはJR東日本が広く一般から公募、平成30(2018)年6月5〜30日の募集期間中に集まった駅名案は6万4052件(1万3228種類)にものぼっている。駅の場所は広大な車両基地の跡地再開発地区で、都心部に9.5ヘクタールというまとまった土地は今後まず出現しそうもない。

そして締切から半年後、同年12月4日に発表されたのは「高輪ゲートウェイ」であった。公募でダントツ1位だったのは「高輪駅」の8398件、2位が「芝浦駅」で4265件、以下は芝浜、新品川、泉岳寺、新高輪、港南などが続いている。

高輪ゲートウェイ」は130位の36件であったことから、これでは公募にした意味がないという批判も集まっているようだが、最初からJR東日本も「多数決で決める」とは言っておらず、そもそも民間企業の施設名なのだから、第一義的に命名権が同社にあるのは間違いない。

参考までに新駅予定地は港区港南二丁目で、町名は昭和40(1965)年に命名された新しいもの。それ以前は芝高浜町、芝海岸通その他であった。芝が目立つが、これは「旧芝区内」であった履歴を示すに過ぎず、大正初期まではすべて海面であった。駅予定地に最も近い陸地の現住所は高輪二丁目である。

■「ゲートウェイ」は公募前にすでに内定していた?

JR東日本が発表したプレスリリースはその選定理由を次のように述べている。

この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑(にぎ)わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。
新しい街は、世界中から先進的な企業と人材が集う国際交流拠点の形成を目指しており、新駅はこの地域の歴史を受け継ぎ、今後も交流拠点としての機能を担うことになります。
新しい駅が、過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として、街全体の発展に寄与するよう選定しました。

再開発地区のプロジェクトは「グローバル ゲートウェイ 品川」と名づけられ、その名称はすでに平成27(2015)年にJRが出した都市計画概要のパンフレットに明記されていた。

ここには「国際交流拠点の形成イメージ」として「人々の移動と交流をスムーズで活発にしていく先進テクノロジーの育成」「世界の模範となる、環境・経済の両面で持続可能な都市開発モデルを確立」「交通ネットワークが結ぶ人や地域の魅力を循環し育てる仕組み」といった文言が躍っており、漠然ながらバラ色の未来構想が描かれている。想像するに重要キーワードの「ゲートウェイ」はすでに内定しており、公募結果はその頭に付ける地名の参考に用いただけと考えても不思議はない。

■由来となった「高輪大木戸」は関門だった

高輪という地名は江戸期から広域の通称として用いられていたようで、高鼻和、高名輪、高縄、高畷とも書いたという。畷(縄手)は田畑の中の道、まっすぐな一本道などを指すが、高鼻和の表記からはハナワ(微高地)との関連もうかがえる。地形的には海沿いの高台で、東側(品川駅の方)は崖になっているため、高さがひときわ強調されたのだろう。

いずれにせよ数百年は経つ古くからの地名で、京都から来る東海道はこの崖下が江戸の入口だった。ここに関門としての高輪大木戸が設けられたので、これを後付けで「ゲートウェイ」に関連させたようだ。これまで高輪エリアには泉岳寺駅と高輪台駅(都営地下鉄浅草線)、それに白金高輪駅(同三田線・東京メトロ南北線)が設けられているが、「高輪駅」そのものはない(厳密に言えば昭和初期まで京浜電気鉄道〔現京急〕に高輪駅が存在)。

わざわざ山手線・京浜東北線の電車のためにその駅名が来るのを待っていた(?)かのような状態だから、もしこれが「ゲートウェイ」といった商業的思惑を帯びた夾雑物(きょうざつぶつ)を含まない「高輪」で決まったとすれば実にぴったりくる。周囲の山手線の駅名である田町駅、品川駅、大崎駅、五反田駅、目黒駅のように歴史的地名シリーズの仲間入りするにふさわしい。

■キラキラ地名の象徴「田園都市線」

再開発でも商業施設でもスタジアムでも、何かを大々的に売り込もうとするとき、日本ではしばしば外国語を含む造語を前面に出してきた。既存の地名や概念ではいけない。気宇壮大でいて、しかし誰もが理解できるワードは避け、わかったような、わからないような漠然とした、でもみんなが憧れる雰囲気を持つ新造の固有名詞が好まれるのだ。そう、まさに広告代理店が得意とする分野である。

地名や駅名の分野で、最もそれが発揮されてきたのは新興住宅地──ニュータウンだろうか。その典型が民営最大規模を誇る東急多摩田園都市だ。この「田園都市」という言葉も歴史は古く、そもそも英国で始まったガーデンシティを翻訳し、日本に適した流儀で導入したものである。大正7(1918)年に田園都市株式会社が立ち上げられ、東京市の南西郊外に優良住宅地を供給した。

その新しい街に住む人を都心へ運ぶ役目を果たしたのが子会社の目黒蒲田電鉄で、これが今の東急になっている。田園調布という地名は、そもそも荏原郡調布村に開発された田園都市・多摩川台住宅地に由来する駅名(大正15年に調布から改称)が先で、大森区の町名に採用されたのはその6年後のことだ。

■小金持ちを誘致するには「新しい地名」が必要だった

戦後も引き続き東急は田園都市開発に力を注ぎ、川崎市から横浜市にかけての多摩丘陵に50平方キロに及ぶ広大なニュータウンを計画する。新住民の輸送の軸となるのはその名も田園都市線で、新しい街の北の中心と位置づけられた駅には、当時の東京急行電鉄社長・五島昇がじきじきに「たまプラーザ」と命名した。プラーザはスペイン語で広場を意味するが、英語でないところがミソだ。昭和40年代といえばカタカナ英語は巷に氾濫しており、ワンランク上の街をアピールするのには、ひとひねり必要だったのだろう。

多摩田園都市のエリアでは、在来の歴史的地名に由来しないこのたまプラーザの他にも青葉台、藤が丘、あざみ野といった駅名が誕生し、町名としては、しらとり台、さつきが丘、もえぎ野、美しが丘などが旧来の大字・小字地名の多くを排除して設定された。当然ながら当時の既存集落といえば基本的に農村であり、小金持ちサラリーマン層をターゲットとする不動産商品の販売にあたっては、何としてもそれら在来地名に対して「差別化」することが必要だったのである。

■北海道から鹿児島まで「じゆうがおか」の地名は全国に

宅地を造成して「都市」と名づける手法は、小田急も戦前に「林間都市」で実現させた。東林間、中央林間、南林間の3駅がその名残だが、昭和16(1941)年まではそれぞれ東林間都市、中央林間都市、南林間都市と「都市」が付いていた。しかし当時としては都心から離れ過ぎていたためか売れ行きは芳しくなく、いつまでたっても「林間」を脱し得なかったため削除したらしい。皮肉にも都市化が進んだのは「都市」を外して20年ほど経った戦後の高度成長期であった。

しかしブランド地名はその人気ゆえに拡散する性格があり、特に戦後になって「○○ヶ(が)丘」は雨後の筍のように急増する。自由ヶ丘(自由が丘)の地名だけをとっても、昭和30年代から平成にかけて帯広市、青森市、弘前市、仙台市、いわき市、水戸市、つくば市、あわら市、名古屋市、鈴鹿市、河内長野市、大阪府熊取町、防府市、宿毛市、北九州市、宗像市、鹿児島市(いずれも現市町名)と全国各地に広まった。

差別化したつもりのブランド地名の神通力も、全国遍く行き渡ってしまうと徐々に飽きられるのは世の常である。自由が丘や田園調布、芦屋の六麓荘町など本家のブランド力は減退しないにしても、新規に開発する宅地の命名には新しいセンスが求められる。○○ヶ丘の次は○○台、そして○○野、さらにもっと斬新なものへ。新しい街とその「ゲートウェイ」たる駅の命名にあたって担当者は知恵を絞り、また新たな傾向の地名・駅名を誕生させていく。

■決定時は9割以上が「変えたほうがいい」と反対

その点で「高輪ゲートウェイ」はこれまで挙げた多くの地名・駅名の路線に連なる典型で驚きはないが、2018年12月の発表以来、ネット空間では実に評判が悪い。報道直後のネットでのアンケートでは「名前を変えた方がいい」という意見が実に95.8パーセントを占めたという。大学生の長女の第一印象も「ダサい」であった。地名・駅名に造詣の深い漫画家・エッセイストの能町みね子さんがこの駅名の撤回を求める署名運動(現在は終了)をネット上で展開したところ、賛同する人の署名は短期間にもかかわらず4万7942人に及んだ。

縷々(るる)挙げてきた今風の地名・駅名は、そもそも誰の意思によって決定されているか明確でないケースが大半のようだが、最終決定したのが会社や役所の幹部の「おじさんたち」であることはおそらく間違いない。要するに私の前後の世代であるが、トレンドに遅れてはならないとの強迫観念は強く、「新しいモノを立ち上げる時には新しい造語」を長い生活の中で骨肉化させてきている。浮かび上がるのは、いわば「ナウなヤングのフィーリング」に追い付こうとする姿だ。

■先人も「みだりに改称致さぬやう」と釘を刺していた

今尾恵介『地名崩壊』(KADOKAWA)

もちろん造語を自分だけの世界で濫造するだけならいいのだが、この近現代の100年そこそこの間に歴史的地名を否定し、そこに流行に左右されるタイプの安普請な固有名詞を上書きし続けてきた罪は、住居表示法で全国の地名を潰して回った私の祖父母の世代を含めて実に重い。その点で「高輪ゲートウェイ」を拒否する、主として若い世代の反応は救いである。

明治新政府は、西南戦争からまだ数年しか経たない明治14(1881)年に太政官達第83号で、「各地に唱ふる字の儀はその地固有の名称にして往古より伝来のもの甚だ多く、土地争訟の審判、歴史の考証、地誌の編纂(へんさん)等には最も要用なるものに候条、みだりに改称・変更致さぬやう」と釘を刺している。

駅はたまたま会社の施設であるかもしれないが、関係住民などが永続的に利用する公共財の側面の方が大きい。目先の商売のためには勝手放題に決めてよろしいと考えている人に対して、先賢のこの言葉を贈りたい。通じるといいのだが……。

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今尾 恵介(いまお・けいすけ)
地図研究家
1959年横浜市生まれ。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退。(一財)日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査を務める。『地図マニア 空想の旅』(第2回斎藤茂太賞受賞)、『今尾恵介責任編集 地図と鉄道』(第43回交通図書賞受賞)、『日本200年地図』(監修、第13回日本地図学会学会賞作品・出版賞受賞)など地図や地形、鉄道に関する著作多数。
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(地図研究家 今尾 恵介)