「何をしているんですか!」医師も呆れ…大腸がんが肝臓→卵巣に転移した女性(39)がステージ4で始めた驚きの日課

■30代でがんを告知されて「立てた目標」
いつまでも走り続けていたい――。
ハワイのホノルルマラソンを走りながら、五十木輝美さん(39=埼玉県在住)はそんな感慨が押し寄せてきたという。
看護師として大学病院などに勤務してきた五十木さんは、多忙な日々に追われていた。かねて「ハワイ旅行に出かけて、ホノルルマラソンに出場したい」という希望を抱いていたものの、あまり現実味のない話だった。それを実行に移そうと決意したのは、がんの告知を受けた時だったという。
五十木さんがこう話す。
「私は勤めていた病院で、がんの告知を受けた患者さんを何人も見てきました。夜、病室で泣いてしまう人もいれば、病気のことをインターネットで熱心に調べ始める人もいました。私の場合は好きなことができなくなってしまうという焦りから、ハワイ旅行の計画を立て始めたんです。旅費はいくらかかるのかとか、観光スポットやマラソンのコースについて調べました。いま考えると、一種の現実逃避だったのかもしれません」
学生時代はチアリーディングの選手として活躍した。ジャンプやスタンツ(組体操のように人を持ち上げる技)などをくり出すアクロバティックな競技だけに、もともと体力には自信があった。がんの告知を受けた日から、闘病しながらマラソンに挑戦し続けるという新たな生活が始まったのである。
■「あと1年間生きられるだろうか」
五十木さんに大腸がんが見つかったのは、2022年1月のことだ。お腹が張るような感じがあり、食後に腹痛を起こすといった症状が続いたため近所の胃腸科クリニックを受診した。腹部エコー検査を受けるとすぐに大きな病院を紹介され、即日入院となった。翌日には、大腸カメラ検査(大腸内視鏡検査)や胸部CT検査が実施された。
検査結果については、夫とともに説明を受けた。下行結腸の部分に大きな腫瘍があるため手術で取らなければいけないこと、肝臓にも何かしらの腫瘍があることなどが、主治医から告げられた。
「私は大腸カメラを受けながら、モニター画面を見ていました。一目でがん細胞とわかるものが映し出されていたので、覚悟はできていました。主治医の先生は言葉を選びながら説明してくれましたが、私のほうから『肝臓への遠隔転移があるということは、ステージ4ですね』と確認しました」
結婚から5年がたち、念願のマイホームを購入し、愛犬のラブラドールレトリバーを飼い始めた。五十木さん夫婦の生活が軌道に乗り始めた矢先のがん告知だった。
「私は看護師として同じような患者さんを見てきた経験から、あと1年間生きられるだろうかと思いました。でも、そんなことを考えていても仕方がない。これから先、元気でいられる時間は限られている。病気のことは先生たちにお任せして、私は自分のやりたいことをやろうと思い直しました。夜、病室で40歳になるまでにやりたかったことをいろいろと思い浮かべながら、スマホでハワイ旅行の情報を猛然と調べ始めたんです」
■ごはんを食べても「砂利を噛んでいるよう」
手術で大腸がんと肝臓の転移巣を摘出した後、全身治療として抗がん剤の投与が開始された。抗がん剤治療の1クールは3週間。初日に注射薬のオキサリプラチンを点滴投与され、その日から経口薬のゼローダを2週間服用して、1週間休薬する。それを全8回くり返す約半年間の治療スケジュールだ。
五十木さんは、最初の1週間で強い副作用に襲われたという。全身にだるさと筋肉痛のような症状が現れ、一日の大半を横になっていないとつらい状態だった。
「味覚障害が起きて、ごはんを食べても砂利を噛んでいるような感覚でした。味覚の強い調味料だと味がわかるので、ごはんにマヨネーズや焼き肉のたれをかけて食べました。薬の副作用のせいなのか、空腹になると気持ちが悪くなりました。このため過食になり、手術前から体重が20kgも増えました」
このため、医師から「無理をしない範囲」で運動を勧められた。五十木さんはスポーツジムに入会し、水泳や水中ウォーキングなどに取り組んだ。闘病しながら、看護師の仕事も続けた。副作用が現れている期間は働けないため、自由シフトで働けるクリニックに転職した。
だが、11月には肝臓への転移が再発し、大動脈周辺のリンパ節にもがんが見つかる。五十木さんは再度の抗がん剤治療に堪え、翌23年8月に手術で転移巣を切除した。
■「そこまでやれとは…」主治医は机に突っ伏した
退院後、マラソンに挑戦するためトレーニングを開始した。最初は1日に20分程度走ることから始めて、徐々に距離を伸ばして「10km走」にチャレンジした。また、長時間走るためのスタミナ強化練習として「3時間走」を取り入れ、長距離をゆっくりとしたペースで走ることを心がけた。
「私の場合、早く走ることが目標ではありません。ホノルルマラソンには制限時間がないので、足を止めなければ完走できるだろうと考えていました。病院の診察日に、主治医の先生にホノルルマラソンにエントリーして、トレーニングを積んでいることを打ち明けました。先生は『何をしているんですか!』と驚き呆れていたので、『先生も少し運動しなさいと言いましたよね』と返すと、『そこまでやれとは言っていない』と言って机に突っ伏してしまいました(笑)」
現在では、主治医や腫瘍内科の担当医も「生活の中で治療をメインにするのではなく、五十木さんのやりたいことをメインにしましょう」と、QOL(生活の質)を最優先に考えている。抗がん剤の副作用が現れる期間がマラソン大会に重ならないように、治療を延期したり、抗がん剤を減量したりして、五十木さんのマラソンライフをサポートしてくれているという。
■初マラソンは「6時間48分50秒」で完走
再手術からわずか4カ月後の23年12月、五十木さんはホノルルマラソンに参加した。
「全行程を歩いても9〜10時間くらいなので、8時間を切れたらいいやと思っていました。走ったり歩いたりでいいから、エイドステーションで水分を補給する時以外は立ち止まらないようにしました。めまいや低血糖状態になるハンガーノック(エネルギー切れ)になることもなく、楽しく走り切ることができました」
マラソン初挑戦の結果は、6時間48分50秒だった。

ハワイから帰国すると、今度は卵巣への転移が見つかった。すでに右胸の皮下にポートが埋め込まれていたことから、今度は抗がん剤の「お持ち帰りポンプ」を投与された。自宅でも点滴治療を行うことになったのだ。
「投与期間中は入浴や運動が制限され、副作用のため愛犬と遊ぶ元気も失いました。しばらくは毎日、泣き暮らしました」
それでも走ることへの気力は、萎えることはなかった。24年1月に卵巣の摘出手術を受けると、まずはハーフマラソンに出場して体を慣らした。12月には、湘南国際マラソン(神奈川県)を5時間33分46秒で完走した。
■足の疲労骨折、新たな転移が襲う
五十木さんは次の目標を立てていた。それは「ウルトラマラソン」に挑むこと。「とにかく長い距離を走ることを楽しみたい」というのが、その理由だ。ウルトラマラソンはフルマラソンの42.195kmを超える距離を走る競技で、50kmや100kmなどのコースがある。
25年4月に開催される「チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン」の100kmコースへの出場を目指し、トレーニングに励んだ。月に1、2回は50km走、60km走を取り入れ、持久力とメンタル面の強化に努めた。
ところが、同年3月にウルトラの練習のつもりで出場したフルマラソンで足を痛めてしまう。右足の疲労骨折と腓骨筋腱炎を起こしていた。十分な練習もできないまま富士五湖ウルトラに強行出場したが、やはりすぐに足が痛み出した。約19km地点にある第1関門でリタイアせざるを得なかった。
さらに病魔が襲った。7月には、残ったもう片方の卵巣にも転移が見つかり、摘出手術を受けた。術後は必死になってリハビリを続ける毎日だった。
そうまでして五十木さんをウルトラマラソンへとかき立てたのは、X(旧Twitter)上である市民ランナーと出会ったことがきっかけだった。五十木さんと同じステージ4の大腸がんで、ストーマ(人工肛門)を装着しながら、フルマラソンとウルトラマラソンの両方を走り続けている東島道夫さん(62=東京都在住)の投稿に感銘を受けたからだ。
■抗がん剤治療を受けない「師匠」
東島さんは毎回のように「サブ4」を達成している実力者だ。サブ4とはフルマラソンを4時間以内で走り切ることで、各大会で上位20%程度しかいないといわれている。東島さんは、フルマラソンは20年間のキャリアがあるが、ウルトラマラソンのほうは2年前から始めたばかり。「チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン」の100kmの部にも出場し、制限時間(14時間)内の13時間17分03秒で完走を果たしていた。驚異的なのは、大会への参加ペースだ。
東島さんは、ハーフマラソンも含めると月1回以上のペースで大会に出場している。25年だけでも20大会にエントリーし、うち8大会がウルトラマラソンだ。

五十木さんと東島さんは互いにXのアカウントをフォーローし、それぞれの投稿に対してコメントを送り合うようになっていった。その中で、五十木さんは東島さんのことを敬意を込めて「師匠」と呼んでいる。
2人が対照的なのは、東島さんは現在、抗がん剤治療などの標準治療をまったく受けていないことだ。東島さんは19年3月、直腸がんが見つかった。抗がん剤治療を受けたががんの縮小効果は得られず、20年1月、手術で直腸と周辺リンパ節を摘出。同時にストーマ(人工肛門)を造設した。
だが、その1年後には両側の肺に多発転移が認められ、ステージ4と診断された。医師からは次の段階の抗がん剤治療を強く勧められたが、応じる気にはなれなかった。最初の抗がん剤治療を受けた時に副作用の下痢がひどく、体重が著しく減少したからだ。
■「余命1、2年」と宣告されてから6年
東島さんがこう振り返る。
「悩み抜いた末、抗がん剤治療開始を待ってもらうことにしました。すでに会社を退職しており、子どもも独立しているので、副作用のつらい抗がん剤による延命治療は必須ではないと考えたのです。私としては生活の中心であるランニングができなくなるような治療は、できれば受けたくない。それ以来、ずっと経過観察にしてもらっています」
その間、他の医師が進めていた臨床試験にも被験者として参加したこともある。「糖質制限・ケトン食」を中心とした食事療法で、がん細胞が増殖する栄養源となる糖質の摂取を極端に減らす。代わりに脂肪をエネルギー源として積極的に摂ることで、体内で抗がん効果が期待できる「ケトン体」という物質の生成を促すという治療法だ。東島さんが説明する。
「実は、ダイエットとは異なる糖質制限や、ケトン食は一部のトップアスリートがランニング能力や持久力を高める食事法として取り入れています。ですから、私にとってはまさに一石二鳥でした」
そのメカニズムははっきりとわかっていないことも多いというが、特筆すべきなのは、東島さんはがん罹患後に出場したフルマラソンで自己ベストを4大会連続で更新したことだ。
手術をした医師からは「抗がん剤治療をしなければ余命は1、2年くらい」と言われたというが、すでに6年がたった。現在も緩い糖質制限を行い、2カ月に1度は肺のCT検査や血液検査を受けながら、経過観察を続けているという。
■「2人で一緒にゴール」を目標に沖縄へ
東島さんと五十木さんは、マラソン会場で顔を合わせたことはあるが、一緒に走ったことはなかった。五十木さんのほうから「師匠、ウルトラマラソンを一緒に走りませんか」と声をかけたという。Xで五十木さんの奮闘ぶりを知っていた東島さんは彼女のウルトラマラソン完走の手助けをしたいと考えていたので、「2人で一緒にゴールする」ことを提案し、快諾した。
照準となる大会は、25年12月21日に開催される「沖縄100Kウルトラマラソン(主催・同実行委員会、共催・琉球新報社)」に定められた。
沖縄ウルトラマラソンは、100kmの部と50kmの部がある。100kmのコースは太平洋側の与那原町の与那古浜公園がスタートとフィニッシュ地点。沖縄島南端の海沿いの道を走り、東シナ海側の糸満市役所が折り返し点となる。ここが50kmの部のスタート地点で、100kmの復路と50kmの部は同じコースを走る(コース図参照)。

東島さんは100kmの部に出場するが、五十木さんは無理をせずに50kmの部を選択した。100kmは午前5時スタートで、制限時間は14時間。50kmは午前11時スタートで制限時間は8時間。どちらも、午後7時までにゴールの与那古浜公園に到着すれば見事完走だ。
東島さんの100kmマラソンの自己ベストは13時間10分42秒(25年3月の茨城100Kウルトラマラソン)だから、アクシデントがなければ余裕でクリアできる。50kmを走る五十木さんも直近のフルマラソンを約6時間(5時間55分55秒)で完走しているから、プラス8kmを2時間かけて走ればいい計算だ。「2人で一緒にゴール」することは十分、達成可能な目標と思われる。
■シューズが履けず、なんとサンダルで出場
東島さんは一緒にゴールするために、綿密な計画を立てた。
「私が最初の50kmを1km7分のペースで走れば、10時50分頃に折り返し点の糸満市役所に到着します。20分くらい休憩を取って、11時に50kmの部でスタートした五十木さんを追いかける形になります。第4関門(50kmの第1関門)と第5関門(同第2関門)の間くらいで追いつけば、後は五十木さんのペースに合わせればいい。アップダウンのあるところはペースを落として、1km8〜10分で走れば制限時間内にゴールできるはずです」
東島さんがつくった50kmの部(100kmの復路)の計画表によれば、午後6時51分にゴールに到着する予定だ(写真参照)。

ただでさえ苛酷なレースだが、五十木さんは大きなハンディキャップを負っていた。抗がん剤の副作用による手足症候群を発症していたのである。手や足の皮膚・爪の細胞に障害が起きて、腫れや痛み、爪が変形するなどの症状が現れる。五十木さんが説明する。
「私は、足の爪のまわりの肉が盛り上がって出血している状態でした。ですから、ランニングシューズが履けません。大きめのシューズも履いてみたのですが、靴の中で足が動いてしまい、爪先に当たるとすごく痛いのでダメでした」
このため、ワラーチというサンダルで走ることにした。踵に引っ掛ける紐が付いたビーチサンダルに似た履物だ。五十木さんは実際、昨年からワラーチを履いてハーフマラソンとフルマラソンを完走している。
「裸足で走る感覚があり、体幹を強くするといわれていますのでワラーチを採用しているランナーの方もいます。でも、シューズのようなクッション性がないので、走ると足がむくんで痛くなります」
こんな状態で、本当にウルトラマラソンを走り切ることができるのだろうか。
■雨の沖縄、午前5時の号砲
迎えた12月21日、100kmの部には892人がエントリーした。小雨がぱらつく中、午前5時に号砲とともに一斉にスタート。東島さんはランニングウェアの上にレインポンチョを羽織って勢いよく駆け出した。
「スタート時点では小雨でしたが、スコールのような雨も降ってきましたので、ポンチョを着ていて正解でした。ずぶ濡れになると体力が消耗しますから」
エイドステーションでは、水の他にジューシーおにぎりやサーターアンダギー、ポーク卵など沖縄のソウルフードが豊富に用意されていたが、東島さんは大豆バーのソイジョイを1本と、黒糖を2粒を摂るだけに抑えた。順調に1km7分台で走り続け、予定通り10時50分に折り返し点である糸満市役所に到着した。
50kmの部では262人が出場した。五十木さんは、東島さんの姿を見つけると「来たね、ナイスラン!」と声をかけ、スタート地点へと向かった。この時、すでに雨は上がっていた。
東島さんは20分間の休憩を取ると、ランニングシューズから「台湾サンダル」に履き替えた。ワラーチを履いた五十木さんと、できるだけ同じ条件で走るためである。台湾サンダルは軽量なうえ、ワラーチとちがってシューズ並みにクッション性が優れているので、近年、台湾サンダルでマラソンを走る人が増えているという。ただ、ワラーチよりも鼻緒がしっかりしているため、五十木さんにはやはり痛くて履けないそうだ。50kmの号砲から10分後、東島さんは五十木さんを追いかけ、再び走り出した。
■足の裏の皮がベロンとズル剥けた
糸満市の古民家集落や南部戦跡沿いを走り、五十木さんの背中をとらえたのは約15km地点だった。これも想定通りだ。東島さんがこう話す。
「そのまま一緒には走らず、私が先に行ってエイドで休憩しながら五十木さんを待つ、というパターンをくり返しました。その後は想定以上のタイムで関門をどんどんクリアしていきました」
後半に控えるハードな坂は、2人でゆっくり歩いた。コース最大の見どころは、コバルトブルーの海に向かって大きくカーブを描くニライカナイ橋(南城市)だ。全長660メートル、高さ80メートルからの絶景は、2人の疲れを忘れさせた。
五十木さんが言う。
「ちょうど晴れてきたので、最高の景色でした。ここまで走って来て本当によかったと思いました」

午後5時10分頃、ゴールの8.5km手前の最終関門(第8関門)を通過。予定よりも24分早いペースで、東島さんは制限時間内のゴールを確信した。そこで五十木さんと同じワラーチに履き替えて、フィニッシュへ挑むことにした。一方、五十木さんは膝と足を痛め、ロキソニンを飲んで苦痛に耐えていた。
「最終関門の近くで転びかけて気づいたのですが、足の裏の皮がベロンとズル剥けていたんです。膝の関節もきつかったのですが、足の裏がとにかく痛かった」
■「先に行って」「一人でゴールしても意味がない」
ここまではフルマラソンを完走した後のような心地よい疲労感だったというが、最終関門を超えると、五十木さんが失速する。足元がおぼつかなくなり、ふらつきながら歩いては立ち止まる。またゆっくりと歩き出すという動作をくり返した。
「メンタルの落ち込みが最初に来て、体が動かなくなってきました。途中から記憶がほぼありません。いま考えると、ハンガーノックを起こしていたと思います」
伴走しながら、「止まらないで」「走って」などと励ましていた東島さんもかける言葉を失ったという。
「五十木さんはふらふらと蛇行しながら歩いている状態で、もう壮絶でした。私も『頑張れ』とも言えず、どう声かけしてよいのかわかりませんでした」
五十木さんは何度も「師匠、先に行って下さい」と懇願したが、東島さんは「私一人でゴールしても意味がない」と説得して、同伴を続けた。
無情にもフィニッシュ地点の2km手前で午後7時となり、タイムオーバーとなった。だが、2人は気落ちすることなく、その後はずっと歩いて午後7時27分に与那古浜公園にゴールインした。制限時間内に完走することはできなかったとはいえ、ウルトラマラソンを見事に走破し、「2人で一緒にゴール」を果たしたのである。終盤に苦闘を強いられた五十木さんも満面の笑みだ。

■最後にうれしいサプライズが
「ここまで来ることができた、あきらめなくてよかった、充実感と解放感といろいろな感情がぐちゃぐちゃと押し寄せてきました」
東島さんにとっても感慨深い大会となった。
「手術と放射線治療を何度もくり返しながら挑んだウルトラマラソンですから、五十木さんは本当にミラクルですよ。ニライカナイ橋からの絶景も堪能して、ウルトラマラソンの醍醐味を存分に味わえた大会になったのではないでしょうか。タイムアウト後、回収車に収容されて強制終了させられると思いましたが、この大会ではそれがなかったのも幸いしました。最終関門を超えていれば、温かくゴールするのを待つという運営方針だったようです」
完走者に贈られるメダルももらうことができた。五十木さんが語る。
「完走できたわけではないので『あれ? おかしいな』と思ったら、運営の方が『持っていってください』と。ただ、頂いたのが100kmのメダルのほうで(笑)。でも、メダルまでゲットできて本当にうれしかったですね」

大会の正式な記録には残らなかったとしても、2人の激走はそれぞれの自分史に深く刻印されたにちがいない。すでに次を見据えている。五十木さんはウルトラマラソン完走を諦めていないし、東島さんは25年を上回るペースで大会に出場し続けている。
■がんは運動で進行を抑制できる
五十木さんや東島さんにとって、走ることが「抗がん剤」になっているのだろう。五十木さんはマラソンを始めてから、血液検査の数値が改善されたと話す。
「抗がん剤治療を受けていると肝機能の数値が悪化することが多いのですが、私はマラソンを始めてからすべて基準値の範囲内です」
東島さんは、マラソンの運動効果が腫瘍マーカーや、肺CTで確認できる転移巣にどのような影響を与えるのか、について自分なりに解析したという。
「その結果、マラソンを走った直後は腫瘍マーカーが下がったり、転移巣の大きさが縮小傾向になったりすることがわかりました。おそらく、エネルギーがマラソンによる体のダメージを修復するために使われ、がんに回らなかったのではないかと考えています」
運動ががんの進行を遅らせているとの分析だが、実際にそのような現象は起こり得るのだろうか。
興味深い研究がある。25年に米イェール大学の研究チームが、「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に発表した論文だ。乳がんやメラノーマ(悪性黒色腫)のマウスを用いた実験で、運動を継続したマウスは、運動をまったくしなかったマウスと比較して、腫瘍のサイズが最大で約60%も抑制されたと報告している。この結果が示唆しているのは、運動によって、筋肉とがん細胞の間でエネルギー源であるグルコース(ブドウ糖)の奪い合いが起きたということ。つまり、がん細胞が増殖するために吸収するはずだった「燃料」を、運動によって筋肉が横取りする形で消費したというわけだ。
この研究が示す重要なメッセージは、身体のフィットネスレベルを高めておくことで、体内環境を「がんが育ちにくい状態」に整えられる可能性があること。激しい運動でなく、中程度の強度の運動でも体内のエネルギー配分を変え、有益な効果をもたらすと考えられること、の2点である。
ただ、東島さんと五十木さんは長年トレーニングを積んできたという素地がある。マラソンは一般的にはハードルが高い競技であり、多くの患者が気軽に始められるものではないだろう。また、あまりにハードな運動は逆効果との見方もある。
■3時間の激走はやりすぎだが、運動はマスト
著名な放射線治療専門医で、自身も膀胱がんに罹患した中川恵一さん(東京大学医学部附属病院 放射線治療部門 顧問・病院診療医)が解説する。
「マラソンを走るのは、年に何回かであればいいと思います。トレーニングで毎日5kmくらい走るのであれば、適度な運動の範囲でしょう。ただ、2時間も3時間もずっと走り続けるというのは、やっぱりやり過ぎでしょうね。適度な運動ががんの予防や再発防止に効果があるということは、医学界ではいまや常識です。
現在、がんに罹っている患者さんも運動をすることで進行を抑制できると考えられます。心配しなければならないのは、むしろ運動不足のほうです。スポーツジムに通わなくてもできる簡単な筋トレを紹介しますので、ぜひ始めてほしいと思います」
本稿の続編では、中川さんが指導する具体的な運動法を紹介したい。
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亀井 洋志(かめい・ひろし)
ジャーナリスト
1967年愛知県生まれ。『週刊文春』『週刊朝日』などの専属記者を経て、現在はフリーランス・ジャーナリスト。著書に『どうして私が「犯人」なのか』(宝島社新書)、『司法崩壊』(WAVE出版)など。
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(ジャーナリスト 亀井 洋志)
