羽生善治が喫した“敗因不明”の負け、A級に上がれない強豪棋士のナゾ…将棋記者が考察する「なぜ順位戦ではドラマが起きるのか」〉から続く

 盤上に命を懸けるプロ棋士たちの素顔を、誰よりも間近で目撃する者たちがいる。将棋記者とカメラマンだ。

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 今年4月、ともに新刊を上梓したカメラマンの野澤亘伸氏(『師弟 棋士の見る夢』)と、朝日新聞記者の北野新太氏(『夜を戦う 純情順位戦』)。その両者による対談が「文春オンライン」で実現した。


野澤亘伸(撮影=北野新太)

 藤井聡太による八冠独占から約3年。果たして、絶対王者の牙城を崩す者は現れるのか。「ポスト藤井」の注目棋士たちを語り合う。(全3回の3回目/最初から読む)

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すでに風格を漂わせる藤本渚

野澤 “ポスト藤井”への関心が高まっていますが、最近注目している若手棋士はどなたでしょうか?

北野 今まで三段時代、あるいは四段昇段前に取材した人は4人しかいないのですが、その伊藤匠二冠、藤本渚七段、齊藤優希四段、岩村凛太朗四段のことがまず浮かびます。藤本さんが四段になった三段リーグ最終日に取材に行って、会見が終わった後、趣味だという音楽の話を藤本さんとしたんですね。ミスチルが好きだというので、ミスチルのどのあたりの曲が好きなんですか?と聞いたら『深海』というアルバムを挙げたんです。

『深海』は私の高校時代の1996年にリリースされたもので、少しダークな印象のあるコンセプトアルバムです。2005年生まれの17歳が「好き」と言うのを聞いて、あ、藤本さんは絶対強い棋士になると思ったんです(笑)。ちょうど『Number』の将棋特集の何冊目かに取りかかっている頃で、編集者さんと「若手でもうひとり誰かいませんか?」と相談を受けていた時でした。あの日の夜、電話したんですよ。「いました。藤本さんという17歳に取材をお願いしましょう」って(笑)。

野澤 私も藤本七段がデビューした年に取材しましたが、「自分はこれから将棋の道で生きていく」という真っ直ぐに前を見つめた姿が印象的でした。今期あたりにはタイトル戦に出てくる気がします。

北野 今、戦っている王位リーグがいきなり楽しみですよね。彼の棋風は藤井さん、伊藤さん、永瀬さんというトップクラスと違うじゃないですか。力戦を志向して、毎局ちょっと悪くしてしまうような局面を作りながらあれだけ勝つのは、ちょっと桁違いというか。大舞台に立ったときに、例えば藤井名人を相手にしても普通に負けていくようには思えなくて、何かを起こしてくれるような期待感があります。同じように、腕力のあるスタイルでたくさん勝っている服部慎一郎七段も、いつタイトル戦に出てくるか、という棋士ですね。

哲学書を読んで三段リーグを突破した男

北野 あと今年の詰将棋解答選手権で優勝した岩村凛太朗四段は、デビュー後は少し苦しんでいるようにも映りますけど、中学生棋士の期待を受けたような棋士ですから何かを契機に勝ち始める予感があります。

 初めての取材の時、今期の三段リーグで上がれたのはどうしてだと思いますかと聞いたら「哲学書を読んだからです」と言うんですよ。

野澤 いいですねえ(笑)。

北野 「ビュリダンとロバ」という哲学の思想を知ったからだと。左に行っても右に行っても同じ距離に同じ量の餌がある、という状況で最善の選択をしようとして悩み抜いて餓死してしまう、というロバの話を読んで、彼は「あっ、僕じゃないか!」と思ったそうなんです。どちらが正しいのか、という局面について、どちらでも正しいなら自分の好きな方を選べばいいじゃないかという気持ちに切り替えられたみたいで。

 いつもニコニコと負の感情を抱えず、詰将棋解答選手権で優勝するくらいの才能を持っているわけですから、覚醒の時が楽しみです。

野澤 全問正解ですからね。伊藤二冠が「藤井さんが出場したら、二人の対決を見たい」と話していましたが、どちらが早く全てを解くかという勝負になりそうですね。岩村四段は哲学書がリーグ突破のきっかけになったというのは、技術的には十分に達していても、自分の内面的な部分のコントロールが課題だったということですかね?

北野 そうかもしれないです。

野澤 リーグ戦もトーナメント戦も、長い期間をかけて行われるので、好不調の波がないことが大きいですよね。いかにメンタルをコントロールするかが技術と並んで重要なのでしょう。

伊藤匠二冠は次のレベルに進んだ

北野 メンタルとは微妙に異なることかもしれませんが、最近の伊藤二冠の将棋を見ていると、技術はもちろん、技術を超えたメンタル的なことについても、ある場所まで達した人のように感じることがあります。

 前期のB級1組の最終戦で、勝てばA級、負けた場合は他の結果に委ねなくちゃいけない状況で澤田真吾七段と戦いました。ずっと押されていて深夜11時半くらいまで負けそうだったんです。以前の伊藤二冠なら、焦りとか重圧とかが姿から見えたと思うんですけど、あの時は一切ありませんでした。終局4分前に澤田さんが落手を指してスッと形勢が入れ替わって、4分後に伊藤さんのA級昇級です、という結末でした。

 そんな決着はあまり見たことがなくて、新聞に思わず「美しい夏の清流に身を任せるような勝局」と書いたのですが、そのような印象を強く受けました。思い出したのは平成期に藤井猛九段が「将棋とは何か?」と聞かれて答えた「最後に羽生さんが勝つゲーム」という言葉でした。藤井名人が現れた後も、連勝記録や数々の最年少記録を更新する時は、ここで負けたら逸していた、という勝負で、最後は作ったように勝っていったじゃないですか。

野澤 ありましたね。朝日杯の優勝とか全てが藤井六冠のための舞台のようだった。

覇者には将棋の神が付いている

北野 将棋という勝負の世界でそんなふうに思うことってほとんどないんですけど、A級に上がる時の伊藤さんには思いました。数日後にインタビューした時に尋ねてみると、実は御本人も同じようなことを感じていて「将棋の神様に感謝しなければなりません」と言うんですよ。

野澤 なるほど。自分が勝ってA級にいくイメージが、フッと入ってきたんでしょうね。

北野 用意されているわけじゃないのに自然と向かっていくような。覇者って、どこかそのようなものを持っているような気がするんですね。

野澤 羽生九段の七冠制覇も谷川浩司十七世名人が21歳で名人になったときも、完全にそうでした。この人がそれを遂げるんだって思えた。

北野 あの一局は、伊藤さんはもっと上までいく存在になるのかもしれないなと思わせる一局でした。

野澤 取材をしながら、それが見えたんですね。

北野 そんなシーンを作り出せる人はいないですからね。どれだけ追い詰められても、どれだけ苦しくても自然に指して、最後は勝っている。どういうことなんだろうと。

野澤 時代を作っていく人のストーリーは、そこに帰結するんだと思います。

実はサービス精神旺盛なトップ棋士

北野 今回の王将戦、棋王戦で藤井さんがダブルカド番から5連勝したのも同じようなものを感じますよね。王将戦で永瀬さん相手に1勝3敗と追い込まれた時、藤井さんでもこんな顔をするんだな、と思うくらい苦しそうにしていたんですけど、第5局で勝った時、スーッと消えたんです。ただそこにいて、真っ直ぐに、風のように勝っていく、というような。伊藤さんの昇級局は、藤井さんのカド番5連勝と印象において共通しています。

野澤 確かに伊藤二冠の充実は著しいですね。特にこの1、2年は指し手にほとんどミスがでない。評価値に表れる“伊藤曲線”が“藤井曲線”を上回る印象もある。相変わらず声が小さくてインタビュアー泣かせですが、以前は取材でオドオドした感じがあったのが、最近は雰囲気が変わってきました。タイトル保持者の責任と感じているのか、可能な限り取材を受けてくれますよね。

北野 忙しい中で、これを頼むのはちょっとなあ、と思うようなことでも「暇だったので嬉しいです」という返事をくれたりしますから。感謝……というか感激しますよ。藤井さんも対局室や会見場を離れるとサービス精神旺盛ですからね。面白いことを言おうと狙っているような印象も最近は強いです。

野澤 藤井六冠に関しても、連盟があそこまで取材規制を敷かなくてもよかったと思います。羽生九段が七冠制覇したときには、写真週刊誌にも普通に出てくれました。でも藤井六冠の場合は一般誌などが取材したくても、ほぼ全てが連盟で止められてしまう。

 ご本人の素顔は記者会見で見せる印象とは別に、とてもユーモラスだと聞きます。子供の頃のエピソードからも、はしゃぐのは嫌いじゃない感じがする。S4(「女性セブン」誌での若手棋士グラビア)のオファーしたら、「伊藤さん(匠二冠)が載ったからには、自分も出ないわけにはいきません」とか言ってくれそうですけどね(笑)。

(野澤 亘伸,北野 新太)