地獄から天国へ、故障続き「ガラスのエース」がたぐり寄せた「蜘蛛の糸」 中江有里

(Photo by Ari Hatsuzawa)
読書好きで知られる俳優の中江有里さんが、日々のできごとや過去の思い出を、1冊の本とともにふり返る連載エッセイ。シーズン開幕を迎えた阪神タイガースは、期待されながら長いこと故障に泣いてきた「ガラスのエース」が序盤から大活躍。彼がこれまで味わってきた天国と地獄を思い、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に重ねて復活を称えるのでした。
2026年、待ちに待ったプロ野球ペナントレースが開幕した。
そして始まった野球づけの毎日。
日々、阪神戦を観る。他のセ・リーグの試合も観る。時間があればファームの試合も観る。
試合が終わると、日記を書き、スコア、個人成績を確認。
何をやってるのだろう、とふと我に返る。仕事もしなあかんのに。
とりあえずYouTube上の「本日のハイライト」を観ることにする。
ハイライトは楽しい。活躍したところばかりを切り取った映像だから。
振り返れば3月27日金曜日、私は東京ドームにいた。
初めて開幕戦を観戦する。
異様な高揚感に包まれる。いつもと何かが違う、周囲の雰囲気も高ぶっている。
今季から加わったサトテルのヒッティングマーチ前奏、熊谷選手、高寺選手、植田選手それぞれのマーチも予習済み。いつでも歌えるぞ!
テンション爆あがり、勝つ準備はOK。
結果、試合が始まる前のこの時が個人的「本日のハイライト」となった。
143試合中のたった1試合負けただけ。そうわかっていても言葉にならない徒労感が残る。
水道橋付近の居酒屋に立ち寄ったら、オレンジのユニフォーム姿の人が酌み交わしていた。
店選びを間違えた。にぎやかなテーブルを横目に、静かに残念会。
まったく疲れが癒えないまま翌日、再び東京ドームへ向かった。
開幕2戦目。本日の先発は高橋遥人。
遥人投手にとって、プロ入り9年目にして初めての開幕ローテーション入り。
ケガのせいで手術を繰り返し、一時は育成契約、2024年に再び支配下登録された「ガラスのエース」。
ところで昨日のあの高揚感はどこへいったのだろう。
本日も143試合中の1試合。周囲も通常のペナントレースモードに戻っていた。
いちいち落ち込んでいたら体も心も持たない。ペナントレースは先が長い。
マウンドでは、遥人が圧巻のピッチングを繰り広げている。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』に出てくる主な人物はふたり。
天国のお釈迦様と地獄にいる犍陀多。
お釈迦様は天国から蜘蛛の糸を降ろした。蜘蛛を助けた犍陀多を救ってやるために。
犍陀多は糸をつかむと、上へ上へと登り始める。これで地獄を抜け出せる、と。
ふと、下を見ると地獄の罪人たちが蜘蛛の糸をよじ登ってこようとしていた。
糸が切れてしまうことを恐れた犍陀多は言う。
「この蜘蛛の糸は己のものだぞ」
物語はさておき、注目したいのは「天国」と「地獄」という場所。
「天国」と「地獄」を見た者はいない。すべて死後の世界だから。
しかしこの世にも「天国」と「地獄」はある。
たとえば最高の場所、楽しい世界、苦難のない楽園、それらは「天国」と呼ばれる。
逆に辛い状況は「地獄」に例えられる。(まれに温泉も地獄と呼ぶけど)
どんな状況を「地獄」、どんな世界を「天国」と呼ぶのかは自分次第だ。
遥人投手は投げられない時期「地獄」にいるかのごとく辛かったかもしれない。
「地獄」を抜け出して「天国」を目指すのは当然。
その一心でたどり着いた9年ぶりの春のマウンド。
降りてきた蜘蛛の糸をたぐり寄せ、マウンドを「天国」としたのは、遥人自身だった。
2点リードの9回裏、遥人投手は二死2、3塁の場面で打者を三振に打ち取り、完封勝利を収めた。
しびれる場面だったし、これまでの遥人の道のりを想うと、今日の勝利は143試合の1試合以上のものがあったと思う。
5年ぶりの完投試合の約2週間後、4月12日の中日戦。遥人投手は再び完投して、阪神は4連勝を決めた。
その翌日、遥人は登録抹消された。長いシーズンを投げ切るためのマネージメントだと思う。
毎試合が143分の1。どれひとつも同じ試合はない。
だから毎日飽きないし、細かいところを見落とさないように観たい。
