オットー大帝の「イタリア遠征」が東フランク王国に「ドイツ人意識」をもたらす…「民衆の統一」が生み出した皮肉な「まとまり」と「分裂」
ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。
オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。
『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第69回
『遠征費用の“ツケ”は、国王の特権をもぎ取ることで支払われた…オットーのイタリア遠征がドイツ諸侯を強大化させたワケ』より続く。
オットーの中央集権政策
ところで伯爵と同じ権能を持つ司教職はすこぶる魅力的な地位である。当時、東フランクには38の司教領があった。オットーはこれをフルに活用する。マインツ大司教には庶子ヴィルヘルム、ケルン大司教には弟ブルーノ、トリーア大司教には従兄弟のハインリヒをそれぞれ充てる。
他にもヴュルツブルク、オスナブリュック、ヴェルダン、メッツ、カンブレー等々の司教にリウドルフィング家の面々を充てた。こうすることで傍系親族の要求を満たし、彼らを権力機構に取り込んだのである。
しかし司教職は世襲ではない。それゆえ代替わりの度に貴族たちによる熾烈な争奪戦がはじまる。そしていつの間にか多くの司教職は大貴族の次男坊三男坊の指定席となっていく。
こうして聖書もろくすっぽ読んだことがなく、満足にミサを上げることも出来ない司教様が出来上がるのである。これは我が日本の平安時代、広大な寺領を持つ延暦寺や興福寺の座主や貫主に藤原家の子弟が就いたのと似ていなくもない。
いずれにせよ、こうなると東フランクは主権を持った聖俗諸侯の乱立となる。
オットーの中央集権政策にはオットーの狙いとは裏腹に中央集権とは逆のベクトルが働いたのである。
このイタリア政策と教会政策はオットー以降の歴代皇帝も堅持した。そのためドイツは時がたつにつれ「ドイツ300諸侯」が割拠するグロテスクなまでの分裂状態に陥る。
オットーのイタリア遠征が生み出した皮肉
つまり、こういうことだ。
オットーの度重なるイタリア遠征が、割拠体制の大公領から寄せ集められた兵たちに一つのまとまりを与えた。そんな彼らをイタリアでは「民衆の言葉を話す連中」と呼んだ。そして、そんな他称がやがて彼らの自称となりドイツ人という意識が芽生えていった。
ところがである。ドイツ人意識の芽生えを促したオットーのイタリア遠征が同時に、後のドイツの分裂状態の遠因となった。
オットーのイタリア遠征は、ドイツのまとまりと分裂という全く逆のことを同時に促したのだ。これぞまさしく歴史の皮肉であり、歴史とはつくづく一筋縄ではいかない、という証左である。
ともあれ、オットーのイタリア遠征はこういう問題を孕んでいたのである。
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