杉村春子(新潮社1956年撮影)

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 1997年4月4日、日本演劇界にこの女優ありと謳われた杉村春子さんが死去した。享年91。「女の一生」や「欲望という名の電車」など数々の舞台で喝采を浴びた一方、銀幕の上でも名だたる名監督たちに愛された大女優である。映画解説者の稲森浩介氏が、小津安二郎監督の作品を通じて映画女優としての杉村さんを紐解く。

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【新潮社の秘蔵写真】小柄な体に宿る唯一無二の存在感…1956年夏、50歳の杉村春子

文学座への道、映画女優の誕生

 杉村春子は文学座の新劇女優として、舞台女優の頂点を極めた人だ。しかし、晩年まで映画出演も続け、その本数は140作以上にのぼる。杉村の舞台女優としての歴史は、多くの出版物に詳しい。ここでは小津安二郎作品を中心に、映画の中の杉村をみていきたい。

杉村春子(新潮社1956年撮影)

 杉村は1906(明治39)年に、広島県・広島市で軍人の父と芸者の母の間に生まれるが、3歳の時に中野家の養子となる。養家が裕福だったので、恵まれた環境で育った。やがて声楽家を目指したが夢叶わず、故郷で音楽教師となる。

 運命の転機は1926年、広島に築地小劇場がやってきたことから始まる。この舞台を観て新劇女優への夢をかき立てられ、杉村は翌年上京し築地小劇場に入る。1937年に、岸田國士らが創立した文学座に参加し、翌年には主演を務め中心女優となった(『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社)。以降60年間にわたり文学座と添い遂げるのだった。

 この間、杉村にとって大きな変化が訪れる。一つは1933年、慶應大学医学部学生で5歳下の長広岸郎と結婚したことだ。

 そして映画へも進出した。本格的な出演は「浅草の灯」(1937年)で、浅草のオペラ一座のメイン女優役を演じ、踊りや美声を披露している。この時31歳。最も若い杉村を見られる映画ではないだろうか。

衝撃を受けた女優たち

 1940年に、ハンセン病に取り組んだ女医を描く「小島の春」に出演する。杉村はハンセン病患者の妻と患者の二役を演じた。この作品について高峰秀子はこう語っている。

「その演技のずばぬけた上手さ、巧みさ、素晴らしさ!……。(略)私は杉村春子の演技に雷に打たれたようなショックを受けた」(高峰秀子『私の渡世日記』文春文庫)

 高峰はこの時16歳だったが、天才子役と謳われていた。「天才は天才を知る」のだろうか。

 森光子もこの作品を観て衝撃を受けたという。「本当に辛い生涯を送っている女の人、他の方では真似できないことをなさっている感じでした」(川良浩和『忘れられない人、杉村春子』新潮社)と語っている。

 杉村が、この頃から他の女優たちにも影響を与えていた証左であろう。

 1942年には、夫・長弘を肺結核で失うという不幸に見舞われた。その後、劇作家・森本薫が杉村のために書き下ろした舞台「女の一生」が、戦時下の1945年に初演を迎える。主人公の布引けいが、明治、大正、昭和生き抜くこの作品を、杉村は生涯で947回演じた。1948年には芸術院賞を受賞し、「杉村春子時代」が到来する。

小津安二郎作品に出演

 この杉村を、映画界は放っておかなかった。木下惠介、黒澤明、成瀬巳喜男などの名監督の作品に出る中、ついに小津安二郎から声がかかる。

 杉村は小津との思い出をこう語っている。

「私をどうして使ってくださったんですかと伺ってみました。そしたら稲垣先生の『手をつなぐ子等』(1948年)を見て、自然な芝居をする人だなと思ったからだとおっしゃいました」(『小津安二郎 人と仕事』蛮友社)

 それでは、小津が言う「自然な芝居」を観てみよう。

「晩春」の杉村

 最初の小津作品は「晩春」(1949年)だ。父・周吉(笠智衆)と娘・紀子(原節子)が2人で暮らしている鎌倉が舞台で、娘の結婚話から親子の様々な思いが描かれる。杉村は紀子の叔母・まさを演じた。

 この時の杉村の役の印象が強い人も多いだろう。お節介なほど世話好きで、よく喋り明るい人柄。親戚か近所にこんな「おばさん」いたよなあと、誰もが思う人柄だ。財布を拾い、ちゃっかり懐に入れるコメディエンヌぶりも忘れがたい。

 印象深いのはラストだ。花嫁衣装の紀子が部屋を出た後、まさは何か忘れ物はないかと確認するように部屋をぐるりと周る。もちろん小津の演出だ。

 改めて見直すと、とても余韻を残す場面になっている。親子で過ごした時代が終わり、別々の人生を歩む。これからは、そんなに会えないかもしれない。誰もいなくなった部屋に、どこか無常観をおぼえる。杉村の演技は小津の意図に見事に応えていると言えよう。

「アンパン食べる?」

 次に出演した「麦秋」(1951年)でも、重要なポイントに杉村が登場する。

 間宮家は、長女の紀子(原節子)ら7人家族だ。隣には、妻を亡くした矢部謙吉(二本柳寛)が母親・たみ(杉村春子)と幼い娘とで住んでいた。紀子は謙吉に好意を持っていることが仄めかされる。

 そんな中、謙吉の秋田への転勤が決まる。紀子が矢部家を訪ねると、たみが「怒っちゃだめよ」と言いながら「あなたのような人がうちの謙吉の嫁に来てくれたらどんなにいいかと考えていた」という。紀子は「おばさん本当に私のことをそう思っていたの。私でよかったら」。紀子は謙吉と結婚してもいいと言うのだ。

 この後の杉村の演技が秀逸だ。喜びのあまりひとしきり泣いた後に「紀子さん、パン食べない、アンパン」とやるのだ。物語が大きく動く場面で、「このアンパン食べる?」の演技がとても効いている。

 その後もとても機嫌が良いたみが描かれる。そんな分かりやすい人物を杉村は何気なく演じているように見える。
 文学座の後輩、加藤武は杉村についてこう語っている。

「あの人は凄い。自然を見事に演じるんだ。(略)映画演技を確立した人で、小津さんの映画とかはたまらない。どこにでもいるおばさんとかの演技、普通はあれができないんだ」(春日太一『すべての道は、役者に通ず』小学館)

杉村春子は4番バッター

 小津は、杉村をどのように見ていたのだろうか。岡田茉莉子は、小津との会話を著書に記している。「秋刀魚の味」(1962年)の完成祝いの場で、野球にたとえてこう聞く。「監督の作品に出た女優の中では、誰が4番バッターだと思います?」と。小津は迷うことなく「それは杉村春子だよ。4番がいなければ、野球にならない」と言ったという(岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』文春文庫)。

 4番バッターと言えば、主役の原節子や笠智衆を考えてしまうが、脇役の杉村が4番だという。この小津の言葉を考えてみたい。

「東京物語」(1953年)を含めて、杉村が出演した作品は、「家族の崩壊」を描いているものが多い。登場する家族は、どこか清らかで浮世離れしたような存在だ。生活感がないと言ってもいい。小津独特のセリフ回しやカット割りが、そのように見せているのかもしれない。

 そこに登場する杉村の役は、考えることは日々の雑事でいっぱいな市井の人だ。拾った財布に大喜びをする俗人でもある。小津はこうした人物を投入することによって、物語の骨格を太くし、リアリティを持たせたのだと思う。そこに観客は深い共感を抱くのだ。

 もし小津作品に杉村がいなかったら、と考える。それはどこかさらっとした、現実味のない人々の物語になっていたのではなかろうか。高峰や森のように、小津もまた杉村の底知れぬ演技力を見抜いていたのだ。

「ボクモツイテイル」

 1963年1月、文学座の芥川比呂志、仲谷昇、岸田今日子ら29名が退団し、劇団「雲」を設立した。杉村はこの動きを全く知らなかったという。晩年になってもこの苦い思いを忘れることはなく、許すこともできなかったという(中丸美繪『杉村春子 女優として、女として』文春文庫)。

 この分裂事件で窮地に立たされた杉村のもとに、電報が届く。「オレガツイテル サトミトン ボクモツイテル オヅヤスジロウ」小津は盟友・里見惇と共に、激励の文を送ったのだ。杉村は「こうして書いていても、胸がいっぱいになって泣いてしまいそうです」と記している(『小津安二郎 人と仕事』)。

 しかし小津はこの年、12月12日の誕生日に60歳で病死する。杉村は通夜に原節子とともに小津家を訪れた。泣き崩れる原を抱き抱えるようにしていたという(都筑政昭『「小津安二郎日記」を読む』ちくま文庫)。

最後の映画出演

 杉村の舞台を観ることは叶わないが、映画の中では観ることができる。そこには、“至芸”というものが存在していた。

 杉村が86歳の時舞台を観た新藤兼人監督は、「いま杉村春子を撮らなければと思った」という(新藤兼人『女の一生:杉村春子の生涯』岩波書店)。杉村のために新藤が用意した脚本は、杉村自身を描くものだった。「午後の遺言状」(1995年)である。蓼科高原を訪れた新劇女優・森本蓉子(杉村春子)の一夏の物語だ。

 分身のような役を演じた杉村は、とても90歳近くとは思えない姿を見せる。小津作品とともにぜひ観てもらいたい。

 晩年の杉村は、あれほど執念を燃やしていた舞台を降板した。膵臓がんだった。それでも、病室で台本を読んでいたという。1997年4月4日、91歳で逝去。通夜は文学座のアトリエで行われた。このような女優はもう二度と出てこないだろう。

稲森浩介(いなもり・こうすけ)
映画解説者。出版社勤務時代は映画雑誌などを編集

デイリー新潮編集部