日本ではいまも「現金が一番安心」と考える人が多い。しかし世界では、お金そのものが大きく変わり始めている。中国が進める「デジタル通貨」は、ただの電子マネーではない。購買履歴や行動データをもとに人間の信用を点数化し、社会を管理する仕組みになり得る。ソニーグループのエンジニア・礒津政明さんの著書『父が娘と語り尽くす 深く、わかりやすく、とんでもなく熱い テクノロジー全史』(実務教育出版)より、父娘の会話形式で、デジタル化する経済の未来を紹介する――。
写真=iStock.com/Dilok Klaisataporn
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Dilok Klaisataporn

■新興国でこそ進む「デジタル決済」

――パパ、今度のインド出張、現地のお金はいくらくらい両替していくの? 気になってるお土産があるから買ってきてほしいんだけど。

ん? 現金はほとんど持っていかないよ。

――そうなの? じゃあ、小さいお土産屋さんじゃ買えないか。

いやいや、逆だよエナ。インドの路地裏の屋台には、「しゃべるスピーカー」が置いてあるんだ。

――え? スピーカー?

そう。お客がスマホで二次元コードを読み込んで支払うと、その箱が「○○ルピー、受け取りました」って大音量でしゃべるんだよ。「Paytm(ペイティーエム)サウンドボックス(注1)」って言うんだ。これなら、忙しい店主がスマホを確認しなくてすむし、文字が読めない人でも耳で確認できるから、安心して買い物できる。

――文字が読めなくても使えるデジタル決済?

そうなんだ。日本人が「現金が一番信用できる」と思っている間に、新興国では「デジタルこそが信用の証」になっている。これが前に話した「リープフロッグ現象」(編集部注:インフラが整っていない新興国が、先進国よりも早く最新テクロノジーを導入すること。カエルがジャンプする様子になぞらえた)の面白いところさ。そして、決済はあくまで「入り口」にすぎない。その先にあるのが、世界中の企業が血眼になって作りたがっている「スーパーアプリ」(注2)っていう巨大な経済圏なんだ。

注1 サウンドボックス
インドの決済大手Paytmなどが普及させた、決済完了を音声で知らせる小型スピーカー。二次元コード決済とセットで置かれている。文字の識字率に課題がある地域でも、「音」で着金を確認できるため、爆発的に普及した。テクノロジーが社会課題を解決した好例。

注2 スーパーアプリ(Super App)
メッセージ、SNS、キャッシュレス決済、ネット通販、配車、ホテル予約など、日常生活に必要なあらゆるサービスを一つのアプリ内に統合したプラットフォームのこと。ユーザーは個別にアプリをダウンロードする必要がなく、一つのIDと決済手段ですべての機能を利用できる。中国の「WeChat(微信)」や東南アジアの「Grab」、イーロン・マスク氏がX(旧Twitter)で目指す「Everything App(万能アプリ)」などが代表例。

■生活すべてをカバーするアプリが台頭

――スーパーアプリ? なんか安っぽいヒーローみたいな名前だけど。

中身はとんでもない怪物だよ。簡単に言えば「スマホの中にもう一つの社会を作る」こと。日本だと、メッセージはLINE、買い物はAmazon、タクシーはUber、支払いはPayPayって、バラバラのアプリを使うことが多いよね?

――うん。それが普通じゃないの?

世界では違うんだ。中国のアプリ「WeChat」なら友達とチャットして、そのまま送金して、タクシーを呼んで、ホテルを予約して、電気代を払って、投資信託まで買える。一つのID、一つのパスワードで、生活が全部完結するんだよ。東南アジア発の「Grab」も、移動、食、決済のような生活インフラをすべてカバーするスーパーアプリを目指しているんだ。

写真=iStock.com/Adam Yee
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――えっ、全部一つのアプリに入ってるの? 画面がごちゃごちゃしそう……。

そう思うよね。でも一度慣れると、もうほかのアプリを開くのが面倒になる。「このアプリさえあれば生きていける」という状態を作る、これが「囲い込み」、つまり現代最強のビジネスモデルなんだ。イーロン・マスクがX(旧Twitter)を買収してやりたかったのも、まさにこれさ。

■「App Store」「Google Play」は不要

――なるほどね……。日本にはそういうのないの?

LINEやPayPayもそれを目指してはいるけど、海外勢には負けているね。なによりも、「生活のすべてが完結する」って言葉の本当の意味、わかるかい? これは単に「便利な機能がたくさん入ってる」ってレベルじゃないんだ。

――それ以上、なにがあるの?

スーパーアプリの本当の恐ろしさは、「アプリストアがいらなくなる」ことと、「人間の行動を格付けする」ことにあるんだよ。

――格付け……?

まず一つめ。中国のWeChatの中には「ミニアプリ」(注3)って呼ばれる小さなプログラムが数百万個も入ってる。だからユーザーは、新しいアプリをわざわざダウンロードしたりインストールしたりする必要がないんだ。WeChatの中で検索すれば、すぐに起動して使える。つまり、スマホのホーム画面にある「App Store」や「Google Play」が、実質いらなくなっちゃうんだよ。

注3 ミニアプリ(Mini Programs)
スーパーアプリ内(WeChatやLINEなど)で動く、ダウンロード不要の軽量なアプリのこと。ユーザーは「アプリをインストールする」という手間から解放され、企業側も開発コストを下げられる。アプリストア(OS)の支配力を脅かす技術として注目されている。

■スーパーアプリの本当の怖さ

――えっ、iPhoneのApp Storeがいらないってこと? それ、Appleが怒るんじゃない?

冴えてるね! だからいま、世界中でプラットフォーム同士の主導権争いが起きているんだ。

でも、もっと怖いのは二つめの「人間の格付け」だ。中国には「芝麻(ジーマ)信用」って有名な信用スコア(注4)があるんだけど、スーパーアプリ上の行動履歴で、個人の信用度を点数化しちゃうんだ。

――点数化って、テストみたいに?

そう。例えば、スーパーアプリでおむつを定期的に買ってる人は、「家庭的で責任感がある」と判断されてスコアが上がる。逆に、深夜までゲームに課金してたり、光熱費の支払いが遅れたりするとスコアが下がる。

写真=iStock.com/shih-wei
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注4 信用スコア(Social Credit Score)
個人の属性(年齢・職業)だけでなく、購買履歴、支払い状況、交友関係などの膨大な行動データをAIが分析し、個人の信用力を数値化したもの。中国の「芝麻(ジーマ)信用」が有名。スコアが高いと、融資枠の拡大やシェアサービスの保証金免除など、実生活で優遇を受けられる。

■日々の活動が評価される

――うわっ、生活をのぞかれてるみたいで気持ち悪っ!

でも、スコアが高いと「デポジットなしで自転車や充電器が借りられる」とか「ローンの金利が安くなる」、果ては「病院の会計待ち時間が短縮される」なんて特典があるんだ。だからみんな、必死でいい行いをしようとする。

――「いい行いかどうか」をAIに評価されるの? なんかディストピア小説みたい……。

日本人は銀行の残高や勤め先で信用を測るけど、デジタル経済圏だと「日々の振る舞い(データ)」そのものが信用になるんだよ。受験や就活で、成績じゃなくて信用スコアを見られるのが当たり前になるかもしれないね。

――絶対にやだ! 私のスコア、絶対低いもん!

自覚はあるんだね(笑)。だから、一つのアプリにデータが集中する「スーパーアプリ」は、国をも動かす巨大な力を持つことになる。そしてね、その「スーパーアプリ」という概念すら、さらに進化しようとしているんだよ。これからは、そもそも「アプリを開く」ことすら必要なくなるんだ。

■アプリすら必要なくなる

――えっ、アプリを使わない? どうやって買い物するの?

例えば、いまのスマホで食事するお店を探すとき「カレンダー」で予定を見て、「食べログ」を開いてお店を探して、「PayPay」で払うでしょ? でも最新のスーパーアプリ構想は違う。

スマホに向かって「来週の金曜、エナとおいしいイタリアンに行きたい」って話しかけるだけでいい。そうするとAIが自動でパパのスケジュールを押さえて、お店を予約して、支払いまで済ませてくれる。人間は、アプリのアイコンをタップする必要すらなくなるんだ。

――うわ、なんかすごいけど……人間がダメになりそう。

中国や東南アジアでは、すでにチャットボットの中で生活のすべてが完結する動きが加速している。さらに衝撃的なのは「お金に色がつく」ことだね。

■経済のコントロールも自由自在

――お金に色? パパ、頭大丈夫?

比喩だよ(笑)。これを「プログラマブル・マネー(プログラム可能なお金)」(注5)と言うんだ。

例えば、政府が給付金を配るとするよね。日本だと銀行に振り込まれて使い道は自由だけど、デジタル通貨なら「食料品にしか使えないお金」とか「3カ月以内に使わないと消滅するお金」というプログラムを埋め込むことができる。

――えっ、消えちゃうの? それお金じゃないじゃん!

いや、それが経済を回すんだよ。中国では実際に、使用期限付きのデジタル人民元を配る実験が行われたことがある。貯金させずに強制的に消費させることで、景気を爆発的に良くするねらいがあるんだ。日本人が「1円でも多く貯金しよう」としている間に、世界では「お金に意思を持たせて、経済をコントロールする」実験が始まっているんだよ。

――なんか……便利を通り越して、ちょっと怖くなってきた。国に管理されてるみたい。

その感覚は正しいよ。だからこそ「Web3」みたいな、国に管理されない自由な技術も同時に注目されているんだけどね。パパはこの「プログラマブル・マネー」に感動して、さっそく開発中の「パーパーアプリ」に導入することにしたんだ!

礒津政明『父が娘と語り尽くす 深く、わかりやすく、とんでもなく熱い テクノロジー全史』(実務教育出版)

――嫌な予感しかしないんだけど。

エナへのお小遣いを、完全デジタル通貨「パッパコイン」にする! このコインには「参考書と文房具にしか使えない」「テストで赤点を取ると残高がロックされる」という画期的なプログラムが……。

――最っっっ悪! 絶対に流行らないし。もはや経済制裁じゃん!

注5 プログラマブル・マネー
「使途」や「期限」、「条件」などをプログラムとして組み込まれたデジタル通貨のこと。中央銀行デジタル通貨(CBDC)の重要な機能の一つ。「特定の地域でしか使えない復興支援金」や「子どもがアルコールを買えないお小遣い」などが技術的に可能になる。

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礒津 政明(いそづ・まさあき)
ソニーグループ Corporate Distinguished Engineer
1975年千葉県銚子市生まれ。東京工業大学大学院修了後、ソニー株式会社(現ソニーグループ株式会社)入社。ソフトウェアエンジニアとして、ソフトウェア・ネットワーク・Web関連の研究開発に携わる。専門領域は、クラウドアーキテクチャ、Webアプリケーション。2012年ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)に異動し、新規事業創出に従事。教育分野における独自のビジネス構想を実現させるため2015年、ソニーグループ初の教育事業会社・(株)ソニー・グローバルエデュケーション(SGE)を設立、代表取締役社長に就任。2016年にロボット・プログラミング学習キット「KOOV®」でグッドデザイン賞金賞受賞(経済産業大臣賞)、2018年に「KOOV for Enterprise」の国内外展開により、日本e-Learning大賞(最優秀賞)受賞。2022年6月より会長。技術と思想面から、教育分野でのイノベーションを追求している。現在は、ソニーグループ株式会社においてDistinguished Engineer(ディスティングウィッシュトエンジニア・卓越した業績を認められたエンジニア)としてWeb3領域での事業活動に従事し、レイヤー2ブロックチェーンであるSoneiumや暗号資産交換所の開発をリードしている。また、(株)銚子電気鉄道において社外取締役も務める。著書に『2040 教育のミライ』(実務教育出版)、『5分で論理的思考力ドリル』(ソニー・グローバルエデュケーション著・学研)シリーズがある。
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(ソニーグループ Corporate Distinguished Engineer 礒津 政明)