「実家だと思ってもらえれば」。麻生要一郎の、ただいまが聞こえる食卓
料理家・文筆家の麻生要一郎さんは、建設会社の跡取り息子だった。気づいたら料理家になっていた、という言い方では足りないくらい、新島で民宿を開き、母を看取り、マンションの大家の養子になった。本人いわく「ひょんなこと」が5つも6つも重なった末にたどり着いた今の麻生要一郎さんを、クックパッドのポッドキャスト番組『ぼくらはみんな食べている』にお迎えしました。
跡取り息子は、草花を摘んでいた
麻生さんは茨城県水戸市生まれ。
祖父が創業した建設会社の長男として、家族の大きな期待を背負って育った。「声が大きくてガキ大将みたいな子」が理想だったが、実際の麻生さんは近所で草花を摘んで歩き、友達はクマのぬいぐるみだけという子供だった。
その「ズレ」に、幼いころから気づいていたという。
「気づいていても変えられないというか、変えないっていうところはありましたね。いつか何かその期待が解けるのか、僕が期待に応えられるようになるのか、もうちょっと時間が欲しいみたいな、多分気持ちがあったんじゃないかなっていう気がしています」
食べ物の好き嫌いも相当なものだった。「ピーマンが嫌い」「人参が苦手」といったレベルではない。
「『食べない』みたいな感じだったので。鶏肉は食べる、卵は食べる、きゅうりとジャガイモは好き、みたいな。あとは別にいらないみたいな」
そんな麻生少年の食の扉を開いたのは、祖母だった。買い物から一緒に出かけ、台所に立つところを見せ、手伝わせてから食べさせる。嫌いな食材も、祖母が揚げてくれた天ぷらなら一応口に入れることができた。「自分のためにやってくれているんだ」と感じると、不思議と食べる気になったのだという。
初めて自分で料理を作ったのは小学3年生のとき。母の帰りが遅くなった夜、お腹が空いて台所に立ち、祖母のチャーハンを真似することにした。そこで麻生さんは、嫌いなはずのピーマンを自分で包丁で刻み始めた。
「ピーマン嫌いだったら入れなくてもいいんだけど、ちゃんと自分で刻んで、めちゃくちゃ細かく刻んで、『これぐらい細かく刻めば大丈夫だろう』とか思いながら刻んでやるわけですよ」
フライパンの持ち方を間違えて軽い火傷もしたが、帰宅した母は怒らなかった。「できることが多いのはいいことだ」と言いながら、使いやすいサイズのフライパンをその日のうちに買ってくれた。「これでやりなさい」と渡されたその日から、麻生さんは台所を自分の場所にしていく。
「壮大な実験」として始めた、新島の民宿
19歳で父が他界し、跡取りとして建設会社に入社した麻生さんは、30歳を前に「自分は本当にこれをやりたいのか」と自問して退社する。食への関心はある。でも経験はない。そんな宙ぶらりんの時期に、ひょんなことから新島への縁が生まれた。

知人を通じて出会った「東京R不動産」ディレクターの林厚美さんに「新島という島に恋をしているんだけど、何か一緒にやらないか」と誘われ、「興味があるともないとも言えない」と答えたら「じゃあ行ってみよう」となった。翌週には冬の新島に渡っていた。
冬の新島の海は暗く荒れていた。麻生さん自身の言葉を借りれば「落ちたらまずいな」という色で、風も強く、島の人はほとんど外に出ない。それでも麻生さんは、ここでやってみることに、一つの意味を見出した。
「通りすがりでは人は来ないじゃないですか、島だから。何かをやって、人に伝わって、それが皆さんに受け入れてもらえたら、自分の考えがさほど悪いセンスではないということで進んでいこう。でも、もし人が来なくてダメだったら、ちょっと人生の方向を考えよう、みたいなタイミングだったので。壮大な実験と捉えて、やってみようかなと」
見つかった物件が民宿だった。料理経験のほとんどない人間が、朝・昼・晩とキッチンに立ち続ける生活が始まる。宿には1泊目の客も2泊目の客も3泊目の客もいる。ヨーロッパからの旅行者にはビーガンやベジタリアンもいて、島の外ではそういった食事が提供されないため、「じゃあ全部うちで作る」という話になっていった。
「金目鯛の煮付けをいくつかの鍋でやってる脇で、アーモンドミルクと豆乳とかでパンケーキを焼くみたいなことをずっとしていて。本当にやれる限りのことはそこでやったという感じはします」

流通の限られた島で、手元にあるものだけで何とかする日々。そのころ頼りにしたのがクックパッドだった。あるもので検索しては今夜の一品を探した。「本当にありがたかった」と今も言う。その民宿は、フレンチトーストが名物の人気宿となった。「料理家としてお仕事始める上での、いい修行でしたね」と麻生さんは振り返る。ひょんなことから飛び込んだ島の台所が、料理家・麻生要一郎の、もう一つの原点だった。
コンビニ弁当の夜に、決めたこと
民宿を畳んだ後、麻生さんは母の介護のために実家へ戻る。看病はできたが、母は急逝した。
実家の片付けをしていたある夜、地元の花火大会と重なって身動きが取れなくなった。お腹が空いて、近くのコンビニでお弁当を買って帰った。猫のチョビと、思い出の詰まった実家で、音もなく、ひとりで食べた。
「なんだかものすごく悲しくなってきちゃって。まあそれが何であれ、その状況で食べてたら悲しくなると思うんですけど。せめて自分の周りにいる人にこういう思いだけはさせたくないな、となんとなく思ったんですよね」
外で聞こえる花火の音が、余計に静けさを際立たせた。それが何の弁当だったかは、もう覚えていないという。それでもその夜の気持ちだけは、鮮明に残っている。
「寂しいとか、わびしいとか、そういう気持ちはなるべくみんなから取ってあげたいなっていう風に思って。そこに自分のこれからの人生というか、食との向き合い方があるのかなっていうふうにその時思ったんですよね」
それまでも誰かのために料理を作ってきた。しかしこの夜を境に、その動機が言葉を持った。麻生さんの料理の核心にあるのは、身近な誰かに喜んでもらいたいという気持ちだ。それはここから育っている。
「実家だと思ってもらえれば」。大きすぎるおにぎりと、ただいまが聞こえる家
千駄ヶ谷に引っ越した麻生さんは、ひょんなことからお弁当のケータリングを始める。友人の撮影現場に持っていったお弁当が口コミで広がり、料理雑誌の取材が来た。「屋号は?」と聞かれて初めて気づいた。屋号はなかった。「じゃあ一応、料理家という感じにしましょうか」と言われて、肩書きが生まれた。これもまた、ひょんなことから。
今の自宅には人がよく集まる。入ってくるなり「ただいま」と言う人たちのために、今日誰が来るかを考えながら、何を作ろうか考える時間が好きだという。
「今日誰々が来るからこれ作ろうとか、あの人はこれが苦手だから今日はやめとこうとか、そういうのを考えながら作ってるのも幸せな時間の一つですよね」
「実家だと思ってもらえれば」と麻生さんは言う。自分が作りたいものではなく、来る人を起点に献立が決まる。その食卓に、人が引き寄せられてくる。

ひとつ、長年の悩みがあった。おにぎりが、どうしても大きくなってしまうのだ。型を使っても、意識して握っても、仕上がりはいつも倍近い。ある撮影で「小さめのおにぎりを2個」と指定が入り、頑張って握って届けたら、奥から「うわ、大きいおにぎり!」と歓声が上がった。「小さく握ったつもりなのに」と肩を落とした。
ところが、よく遊びに来る友人で歌手の坂本美雨さんが、こう言ってくれた。「三角でもなく丸でもない、要一郎さんが握ったっていう感じのこのおにぎりが本当にいい」と。それから麻生さんは、堂々とそのサイズで出すようになった。
不格好で、大きくて、誰かのことを思いながら作られた料理。それが麻生要一郎の料理だ。

今年刊行された自伝食エッセイ『酸いも甘いも ―あの人がいた食卓―』は、そんな食卓の記憶を束ねた一冊だ。帯にはこうある。「好き嫌いなく何でも食べるような子だったら、ちょっと不思議な人生を歩むことはなかった」と。
偏食の、草花を摘む子供が料理家になった。それはきっと「ひょんなこと」ではなく、誰かのそばで、誰かのために、何かを作り続けてきた時間の積み重ねだったのかもしれない。
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【ゲスト】
第65回・第66回(2月20日・27日配信) 麻生要一郎さん

料理家・文筆家
1977年茨城県水戸市生まれ。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが評判になり、日々の食事を記録したInstagramでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍する一方、自らの経験を綴ったエッセイ&レシピ『僕の献立 本日もお疲れ様でした』『僕のいたわり飯』『365 僕のたべもの日記』『僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22』を刊行。近著に初の自伝&食エッセイ『酸いも、甘いも。あの人がいた食卓 1977-2025』がある。
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Instagram: @tyoichiro_aso
【パーソナリティ】
クックパッド株式会社 小竹 貴子

クックパッド社員/初代編集長/料理愛好家
趣味は料理🍳仕事も料理。著書『ちょっとの丸暗記で外食レベルのごはんになる』『時間があっても、ごはん作りはしんどい』(日経BP社)など。
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