【戸塚啓コラム】川口能活はなぜサポーターとメディアからこれほど愛されたのか?
川口能活が引退した。12月2日に行なわれたJ3リーグを最後に、キーパーグローブをその両手から外した。
SC相模原のホームスタジアムで行われた鹿児島との一戦には、1万2612人の観衆が集まった。クラブ史上最高の動員を記録した。
最寄り駅から徒歩15分ほどの道のりは、スタジアムを目ざす人たちで溢れていた。電車の本数が限られているために、多くの人が同じタイミングでスタジアムへ向かうことになるのだが、過去数回の取材では見たことのない光景だった。
スタジアムを目ざす人のなかには、日本代表、横浜F・マリノス、ジュビロ磐田のユニフォームを着た人が混ざっていた。駐車場には「富士山ナンバー」の車があった。たくさんの人がたくさんの思いを持ち寄って、川口のラストゲームを盛り立てた。
報道陣も多かった。
若手と呼ばれていた当時の彼は、質問に感情を揺さぶられることがあった。GKへの無理解と無遠慮による質問が多かったからで、声を尖らせたこともあった。
サッカーを語るのが嫌いなわけではない。むしろ、かなり前向きと言っていい。あたりがすっかり暗くなったクラブハウスの駐車場で、時間を気にせずに話を聞いたことが何度もある。30分の予定だったインタビュー取材が1時間を超え、2時間が過ぎてもまだ話し込んでいた、ということもあった。
そうした取材を通して、僕は川口能活の人間性はもちろん、GKというプレーヤーについての理解を深めていった。
いまでは当たり前のようにGKに問われる足元の技術、広い守備範囲、攻撃の第一歩となるキックやフィードの重要性は、川口が啓蒙していったものだ。身体を投げ出すセーブはGKの最終手段に過ぎず、DFをコーチングで動かし、自らが適切なポジションを取ることでできるだけ派手なセーブを避ける。相手にとって会心のシュート、ゴールのスミを狙った一撃を細かな作業の積み重ねによって難なく処理することが、実はとても難しくて価値があることを、彼は日本サッカーに知らしめていった。
そのプレーと言葉で、GKの本質をメディアやファンに広く浸透させていったのである。日本代表における国際大会でのパフォーマンスと同じくらいに、彼が日本サッカー界にもたらしたものと言っていいだろう。その功績を多くの者が知っているからこそ、数多くのメディアがラストゲームに集まったのだ。
キャリアの晩年はJ2で2シーズンを、J3の相模原でも3シーズンを過ごした。全盛時の眩しい輝きとの対比で「影」のようにも受け取られがちだが、この時間も川口にとっては意味のあるものだった。
「若い選手たちと一緒に練習をすることで、自分にはない考え方や発想に触れることができた。練習場を転々とすることも、サッカーができる喜びと感謝の気持ちを改めて確認することにつながりました。それに、イングランドとデンマークでやっていた僕からすれば、J1のクラブの環境は素晴らし過ぎるぐらいで、J2やJ3でも全く問題はなかったんです」
日本代表やJ1リーグだけでなく、J2やJ3でもプレーした経験は、指導者を目ざす今後の糧になっていくだろう。選手生命を脅かすような大きなケガを経験したことも、選手の気持ちを察する手立てとなるはずだ。
それにしても、鹿児島戦は熱気に溢れていた。相手のサポーターからも労いの拍手が沸き起こり、スタジアムに集まったすべての人々が、“プレーヤー川口”との別れを惜しんだ。
これからも続いていく日本サッカーの歴史で、川口を上回るキャリアを築くGKが現われるかもしれない。しかし、サポーターとメディアにこれほど愛されたGKは、簡単には出てこないだろう。その雄姿を多くの人々の心に焼き付けて、川口はセカンドキャリアへの第一歩を踏み出した。
SC相模原のホームスタジアムで行われた鹿児島との一戦には、1万2612人の観衆が集まった。クラブ史上最高の動員を記録した。
最寄り駅から徒歩15分ほどの道のりは、スタジアムを目ざす人たちで溢れていた。電車の本数が限られているために、多くの人が同じタイミングでスタジアムへ向かうことになるのだが、過去数回の取材では見たことのない光景だった。
報道陣も多かった。
若手と呼ばれていた当時の彼は、質問に感情を揺さぶられることがあった。GKへの無理解と無遠慮による質問が多かったからで、声を尖らせたこともあった。
サッカーを語るのが嫌いなわけではない。むしろ、かなり前向きと言っていい。あたりがすっかり暗くなったクラブハウスの駐車場で、時間を気にせずに話を聞いたことが何度もある。30分の予定だったインタビュー取材が1時間を超え、2時間が過ぎてもまだ話し込んでいた、ということもあった。
そうした取材を通して、僕は川口能活の人間性はもちろん、GKというプレーヤーについての理解を深めていった。
いまでは当たり前のようにGKに問われる足元の技術、広い守備範囲、攻撃の第一歩となるキックやフィードの重要性は、川口が啓蒙していったものだ。身体を投げ出すセーブはGKの最終手段に過ぎず、DFをコーチングで動かし、自らが適切なポジションを取ることでできるだけ派手なセーブを避ける。相手にとって会心のシュート、ゴールのスミを狙った一撃を細かな作業の積み重ねによって難なく処理することが、実はとても難しくて価値があることを、彼は日本サッカーに知らしめていった。
そのプレーと言葉で、GKの本質をメディアやファンに広く浸透させていったのである。日本代表における国際大会でのパフォーマンスと同じくらいに、彼が日本サッカー界にもたらしたものと言っていいだろう。その功績を多くの者が知っているからこそ、数多くのメディアがラストゲームに集まったのだ。
キャリアの晩年はJ2で2シーズンを、J3の相模原でも3シーズンを過ごした。全盛時の眩しい輝きとの対比で「影」のようにも受け取られがちだが、この時間も川口にとっては意味のあるものだった。
「若い選手たちと一緒に練習をすることで、自分にはない考え方や発想に触れることができた。練習場を転々とすることも、サッカーができる喜びと感謝の気持ちを改めて確認することにつながりました。それに、イングランドとデンマークでやっていた僕からすれば、J1のクラブの環境は素晴らし過ぎるぐらいで、J2やJ3でも全く問題はなかったんです」
日本代表やJ1リーグだけでなく、J2やJ3でもプレーした経験は、指導者を目ざす今後の糧になっていくだろう。選手生命を脅かすような大きなケガを経験したことも、選手の気持ちを察する手立てとなるはずだ。
それにしても、鹿児島戦は熱気に溢れていた。相手のサポーターからも労いの拍手が沸き起こり、スタジアムに集まったすべての人々が、“プレーヤー川口”との別れを惜しんだ。
これからも続いていく日本サッカーの歴史で、川口を上回るキャリアを築くGKが現われるかもしれない。しかし、サポーターとメディアにこれほど愛されたGKは、簡単には出てこないだろう。その雄姿を多くの人々の心に焼き付けて、川口はセカンドキャリアへの第一歩を踏み出した。

1968年生まれ。'91年から'98年まで『サッカーダイジェスト』編集部に所属。'98年秋よりフリーに。2000年3月より、日本代表の国際Aマッチを連続して取材している
