何度も愛し合った「不倫相手の局部」をなぜ切断したのか…“行為中の会話”に残された謎《阿部定事件》
〈「なんて女でしょう、笑ってる」不倫相手を行為中に絞殺…31歳女性を“伝説の殺人犯”にした「一枚の写真」《阿部定事件》〉から続く
いまから90年前、1936年5月18日に起きた「阿部定事件」。昭和戦前の事件を眺めて、抜きん出て後世の人々に強烈な印象を残し、伝説化している事件の一つだ。この事件の何が強烈な記憶を人々に刻み込んだのか。長い年月がたったいまも異様な光を放って人々を引き付ける、その正体は何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全5回の4回目)
【実際の写真】阿部定(当時31歳)が移送中に見せた「伝説のほほえみ」。後年の写真も…この記事の写真を全て見る(全14枚)
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阿部定の生い立ちは…
予審調書から阿部定(当時31)の生い立ちを見よう。
1905(明治38)年、東京市神田区新銀町(現千代田区神田司町2丁目と神田多町2丁目)の畳職人の家に3男4女の末娘として生まれた。内弟子のほか外からの職人も出入りする裕福な家。兄姉と年が離れていたので両親にかわいがられ、甘やかされて育った。派手好きな母には6歳ぐらいから三味線や踊りを習わされ、職人たちからは「きれいだ」と言われて、気取り屋でわがままな娘になった。
男と遊ぶようになって
学校は大嫌い。家に大人が多いことから、ませた子どもだった。小学校卒業後、裁縫を習うなどしていたが、15歳のころ、友達の家に遊びに行っているうち、ある大学生と親しくなり、「ふざけているうち、その学生に関係されてしまいました」。阿部定が戦後出版した『阿部定手記―愛の半生』では、誘惑と興味とうぬぼれに負け、「ある青年の誘惑にかかり」「とうとう処女を捧げてしまいました」とある。
「もう嫁には行けない」とやけくそになって、家から金を持ち出しては浅草などの盛り場で遊ぶようになり、複数の男とも関係ができた。女中奉公に出されたが、その家の物を持ち出して警察に連れて行かれた。父が畳屋をやめ、一家は埼玉・坂戸へ。そこでも男と遊んでいたため、父は怒って「そんなに男が好きなら娼妓に売ってしまう」と言い出した。のちに、父は懲らしめるためだったと家族に言ったという。
父は定を遠縁に当たる横浜の稲葉という男のところに連れて行き、斡旋を頼んだ。彼の斡旋に始まる定のその後の遍歴を辿ると――。
横浜での「芸者」に始まって、富山、長野・飯田での「芸者」、大阪、名古屋、京都での「娼妓」、大阪での「女給」、神戸、大阪、東京、横浜での「高等売春婦」(予審調書での本人の表現は「高等淫売」。街娼ではなく、非公認の売春宿に所属した娼婦のことだろう)、商人や院外団の「妾」、名古屋の小料理屋での「女中」……。各地を転々としていたことが分かる。

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定が“もう1人の男”大宮五郎(大宮校長)と知り合ったのは、名古屋の小料理屋で、実家を出てすぐの頃だった。大宮は定と関係を続けながら更生するよう繰り返し説得。「小料理屋をやらせるから、どこかで料理を修業しろ」と言われて働いたのが、定が愛し、殺した男、石田吉蔵の経営する「吉田屋」だった。
出会ったときからひかれ…
定は行き当たりばったりで生きた果てに吉蔵と出会った。「手記」では初めて出会ったときからひかれ、「生まれて初めて知った恋に身をやかれるようになって、夜もすがら眠れぬ幾夜が続くようになりました」と書いている。定はそれまで出会った男とは違うと繰り返し語っている。彼女には初めての真実の愛と思えたのだろう。逆にいえば、それまで知った男は、彼女を食いものにするだけの、ろくでもない男たちだったということか。
定が吉田屋で働き始めてから吉蔵と親しくなるのに時間はかからなかった。店の座敷で一緒にいるところを別の女中に見られ、外であいびきするようになる。その揚げ句の4月23日の家出だった。
予審調書のポイントは第6回尋問での定の供述だろう。「私が変態性欲者であるかどうかは、私の今までのことを調べてもらえばよく分かると思います。今までどんな男にも石田と同じようなことをしたわけではありません」「私のことは世間にあからさまになったため、面白半分に騒がれるようですが、女が好きな男のものを好くのは当たり前のことだと思います」「今度の私がやったようなことをしようと思う女は世間にいるに違いないのですが、ただ、しないだけのことだと思います」。これを変態とみるか、愛の極致と捉えるか――。
「婦人公論」1936年7月号には、定の実家の近所に住んでいたという久保久美の「畳屋のお定ちゃん」という手記が載っているが、そこに挙げられた少女時代のエピソードが定の性格を見事に表している。要約すると――。
〈欲しいと思ったものは、誰が何と言おうと手に入れなければ承知しない性質を持っていた。同じ年のうちの娘が持っている小さな博多人形がめっぽう気に入って、遊びに来る早々、つかんでどうしても離さない。娘は泣き出す。お定ちゃんは人形を抱いたまま、白い目をしてものも言わずに突っ立っている。お母さんまで駆け付けてだましたりすかしたりしましたが、どうしてもウンと言わない。お母さんが新品の高い人形を買ってきてやったけれど見向きもせず、結局、娘に新しい人形を持たせて交換した。その強情なことと言ったら……〉
「全国民待望の大公判」に徹夜組も
1936年11月25日、初公判。同日付東朝朝刊には「霜に結ぶ幻の夢 “お定病”患者群」の見出しの記事が。
「傍聴券を狙って十数人もの篤志家がこの寒空に徹夜の陣を張った。しかも、お定ならぬ紅一点をさえ交えて……。『近頃では共産党大公判、血盟団、五・一五事件以来のこと。帝人(事件)公判もかないませんね……』と守衛さんも微苦笑」
繰り返し行われた共産党弾圧、右翼団体が要人を暗殺した血盟団事件(1932年)、海軍青年将校らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件(同年)、大疑獄事件だったが、全員が無罪になった帝人事件(1934年)といった社会を揺るがす大事件の裁判と並び称されるような騒ぎに。
25日発行26日付夕刊は各紙、開廷を大々的に報じた。読売の本記リードは「全日本を挙げて猟奇のルツボと化し去った例のお定こと阿部定(32)にかかる殺人、死体損壊事件の第一回公判。女が男を独占する道を妖婦お定が自ら語るのだ」と興奮気味。そして雑観は――。
「妖しくも色っぽい」定の姿
〈 これこそ全国民待望の大公判(?)だ。“お定の顔が見られる!”“お定の声が聞かれる!”。ただそれだけですっかり興奮をさらって、猟奇の極致を行った阿部定の妖しい魅惑が奇を好む群集心理に直射して未曽有の人気を呼んだが、それにしてもすさまじい。25日午前9時半開廷の予定というのに、その前夜7時ごろから詰め掛けた傍聴志願者は、妙齢の婦人も交えて霜降る夜を裁判所門前に頑張り、午前5時には早くも一般傍聴人150名の定員を突破してしまった。
この勢いに驚いた裁判所では早速の機転で午前5時半、一般傍聴人を締め切って入場させてしまった。殺到する群衆をシャットアウトする鮮やかな遮断戦術で、いまだかつてないことだ。〉
「法律新聞」同年11月30日号は、開廷に先立って書記が傍聴人に「審理の過程で意外な質問、応答、または状態が発生するかもしれないが、決して笑ったり、拍手したりしてはいけない」などと「興奮禁止令」を発したと書いている。さらに同紙は法廷での定の姿を印象的に捉えている。
「油一滴、白粉一つつけていない、正真正銘の素顔だが、研ぎ上げたような柔らかな肌、豊かな黒髪を無造作に束ね、小首をかしげた姿は法廷を紅色に染めたかと思うほど、妖しくも色っぽい」。
「体は男なしではやっていけない」「そうです」
東日と読売は裁判長と定の一問一答を詳しく記述。定は細谷裁判長に「芸妓には自分から好きでなったのか」と問われ「自分から好きではありませんでした。させられたのです」と答えた。さらに「どんな男が好きか」という尋問には「女に優しい男が好きです」と答え、「心中してもいいと思ったのは石田さん一人だけでした。でも、石田さんはそんな気がなかった」と言い切った。
大宮校長に更生するよう諭された際も「被告の体は男なしではやっていけないようになっていたのではないか」と言う裁判長に「そうです」と答え、東日は記事に「“お定イズム”披露」の見出しを付けた。
吉蔵とのなれそめを述べ、いよいよ5月11日からの「まさき」での2人の行動について陳述が及ぶと、裁判長が「以後、風俗を害する恐れあり」として傍聴禁止を命令。
その後は、「日が暮れて鈍いシャンデリアでは足りず、お定の立つ被告席の前には数本の裸ロウソクが立てられたが、愛戯の果て情人を殺す血なまぐさい場面に及んでは、妖艶の気が法廷を包み『あの時は愛着のあまり独占したい一念からあんなことを致しましたが、今では気の毒なことをしたと後悔しています。これからは一意石田の菩提を弔いたいと思います』と、しんみり女らしい心境を述べたと伝えられる」と26日付読売朝刊は報じた。
営みの中で殺意が生まれて
「まさき」では、密室での吉蔵との性愛の営みの中で定に殺意が生まれ、自分の着物の細ひもで吉蔵の首を絞めて殺害。事前に買って隠してあった牛刀で局部を切り取り、傷つけたことは予審調書でも公判でも隠さず陳述した。
ひもで首を絞めたのは2人の間の性技で、事件前日にも定がそうしたため、吉蔵の首や顔にひどく跡が残った。そして当日、連日連夜の“情痴”の疲れから吉蔵は眠そうにしていたが、「そのうち『お加代(吉田屋での定の名前)、俺が寝たらまた締めるだろうな』と言いました。私が『うん』と言いながらニヤリとすると、『締めるなら途中で手を放すなよ。後がとても苦しいから』と言いました」(予審調書)。吉蔵の言葉はどんな意味だったのか、事件の中で謎として残る部分だ。
「懐かしく思っております」
定は「その時、私はこの人は殺されるのを望んでいるのかしらと、ふと思いましたが、そんなはずのないことはいろいろのことから分かりきっていましたから、もちろん冗談だとすぐ思い直しました」と述べている。しかし、5月22日付東朝掲載の「あの人も喜んでくれているでしょう」という供述を考えると、実際にそう思っていた可能性はあるのではないか。『どてら裁判』には、その「証拠品」が傍聴禁止の法廷で定に示されたときのことが書かれている。
〈「被告人はこれを見てどう思っているか」と尋ねると「非常に懐かしく思っております」と答えた。〉
同年12月8日の第2回公判で検察側は「石田は殺されるとは夢にも思っていなかった」と断定。定の性格を「強烈なる独占欲があり、これを満足せねばやまぬという衝動の持ち主である」「改悛の情さらに認められるべきものなく」として懲役10年を求刑した。
公判に提出された村松常雄・東京帝大(現東大)医学部講師による定の精神鑑定=内村祐之・吉益脩夫他『日本の精神鑑定』(1973年)所収=は「生来性変質性性格異常が幼児よりの環境によりて甚だしく助長せられたるものにして、精神的及び身体的にヒステリー性特徴を呈し、かつ著しき性的過敏症(淫乱症)を有するものなり」とし、心神喪失や心神耗弱を否定した。
東朝によれば、竹内金太郎弁護士が「自殺ほう助か過失致死として律するべきだ」と主張。「今はすっかり悔悟。本人は吉蔵さんの菩提を弔いたかろう。尼さんにでもなりたかろう」と述べると、被告席の定はさめざめと泣いたという。(つづく)
〈《愛した男の局部切断》「刑務所に結婚申し込みが400件以上」日本中を震撼させた殺人犯・阿部定(当時31歳)のその後〉へ続く
(小池 新)
