中日とぶつかった1988年の日本シリーズ第3戦。ホームランを放つ石毛宏典 ©産経新聞

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 1980年代から90年代にかけ、圧倒的な強さでプロ野球界を席捲した黄金期の西武ライオンズ。攻守において全く隙を見せない野球は、長いプロ野球史において史上最強との呼び声も高い。 
 常勝軍団の中心で、類まれなリーダーシップを発揮してチームを牽引したのが石毛宏典だ。なぜ長年にわたって自我が強いプロの選手たちを束ねることができたのか。石毛宏典という男の素顔の一端を知るべく、幼少期の出来事や環境などについて語ってもらった。

◆11人家族で暮らしていた幼少期

 千葉県旭市の農家で生まれ育った石毛は、当時をこう振り返る。

「親父、お袋、3つ上の兄貴、自分の4人に加え、曾祖父がいたり、親父の兄弟が多かったりもして、11人家族で住んでいたんです。昔の農家は屋号で呼ばれることが一般的で、うちの屋号は源左衛門(げんざえもん)でした。周囲からは『源左衛門の次男坊』と呼ばれるわけです。

 当時はほとんどが手作業で、肥溜め(こえだめ)から肥料を担いで田んぼや畑に撒いていました。暑い時期も田畑に手伝いに行っていましたし、曾祖父が五右衛門風呂に入るために薪を割ったりもしていました。そういったことが自分の日々の仕事だったんです」

 いわゆる一般的な家族のように過ごした記憶がないと石毛は言う。

「学校から家に帰っても、家族みんなが野良仕事に出ていて誰もいませんでした。家には田んぼを耕すウシのほか、ブタやイヌもいましたし、シャモやハト、ウサギなんかも飼っていましたね。家族で旅行へ行ったり、お小遣いをもらってどこかに買い物に行くなんてことはありえなかったですね。
 
 小学6年生くらいまでは大体そのような生活でしたし、周囲の家庭も似た感じだったので、貧乏という意識は誰も持っていませんでした。世の中の暮らしはこういうもんだって、みんなが思っているわけです。電車やバスに乗るわけでもなく、リヤカーや耕運機に乗っていましたから(笑)」

◆小学生の時点で身体能力は高かった

 農作業の手伝いに明け暮れる日々の中、石毛の身体能力の高さが徐々に周囲に知れ渡るようになる。

「銚子市、旭市、匝瑳市、飯岡町、海上町、東庄町の生徒が参加する陸上競技大会があって、4年生から出るようになったんです。体は大きくなかったのですが、4年生から6年生の時まで100メートル走で負けたことはなかったですね。運動神経はそこそこ良かったと思います。

 5年生の時に担任の先生から『ソフトボールをやってみれば?』と勧められたりもしましたが、兄貴の影響で4年生の時から少年野球を始めていたんです。当時はピッチャーをやるのは大体ガキ大将と決まっていて、自分はずっと兄貴からキャッチャーをやらされていましたね。それが野球を始めたきっかけです。

 担任も校庭で野球を教えてくれたりしましたね。自分たちはやんちゃだったので、花壇をグチャグチャにしてしまったりして、校長先生に怒られるわけです。担任が『許してやってください』と間に入ってくれて。和やかな環境で育てられたと思いますよ」

◆「早い時間に家に帰りたくないから」野球部に入部
 
 小学生時代は毎日野良仕事を手伝っていた石毛だが、中学校への入学が近づくと、「野良仕事はもうやらなくてもいい」と家族から言われていたという。ただ、「家事を手伝わされるから、早い時間には家に帰りたくない」と考えていたという石毛。一風変わった理由で野球部への入部を決意する。

「一番遅い時間まで練習していたのが野球部だったんです。足が速かったので周囲からは陸上部に入るんじゃないかって言われていたらしいのですが、自分は野球部一択でしたね。家に帰る時間も必然的に遅くなりますから。ただ、当時の野球部は、まぁガラが悪いっていうのかな。自分が住んでいた旭は海っぺりでガラの悪い地域ではあるのですが、練習が終わると正座させられて、ぶん殴られたり……。1年生の時はそういうことが日常茶飯事でしたね。