戦後復興を支えた国鉄の軌跡 現代に生きる我々へ問いかける記憶と変遷の歴史
1953(昭和28年)ごろの日本国有鉄道〔国鉄〕は、先の大戦からの再建に向けて、国民の協力と職員の献身的な努力で復旧したといわれる。「国鉄は国民の皆さんから、お預かりしている鉄道です」。その鉄道もいまや民営化され、JRへと生まれ変わり39年もの歳月が経過した。戦後の国鉄とは、どんな状態にあったのか。今や、国鉄を知らない世代もいる令和の時代である。「輸送量の増強こそ産業と文化発展の基礎」といわれた73年前の国鉄の姿を、当時の記録から辿ることにしたい。
※トップ画像は、1950年代に日本国有鉄道が制作・配布した「混雑から快適へ」のタイトルではじまる国鉄PR用パンフレットの表紙より=資料所蔵筆者
■戦禍をくぐり抜けた国鉄の再建
戦後80年、令和の時代となった今、こんな話をしてもピンとこない人が大半ではないだろうか。1953(昭和28)年に制作された国鉄再建に向けたパンフレットには、「混雑から快適へ」のタイトルではじまり、そのなかには再建への必死の歩みが記されていた。再建のための出費が、約(時価換算)4360億円、再建のために要した延べ人員は約4億5000万人とあった。
「楽しく乗れるにはどうすればよいでしょうか」。その言葉からも苦しい戦禍から抜け出し、復興のために働く人びとは日々増大し、国鉄の輸送力は限度を超えていたことが想像できる。大都市近郊の旅客は、年々増加の一途をたどって、ついに現在の施設と車両とではいかんともできない事態に立ち至ってしまったと。この状態では、旅客に不愉快な通勤や旅行を強いることになるのみならず、混雑によって生じる事故の危険を防止するのに大変だ、とも記される。

1950年代の中央線新宿駅での混雑のようす=資料所蔵筆者(当時のパンフレット「混雑から快適へ」日本国有鉄道より)

1952(昭和27)年ごろの有楽町駅付近のようす。山手線と京浜線(現・京浜東北線)は現在のような複々線ではなく、複線の線路に山手線と京浜線が上下線の線路上を交互に運転していた。画像中央に見える真新しいホームは、線増工事が進む山手線と京浜線の複々線用ホーム=資料所蔵筆者(当時のパンフレット「混雑から快適へ」日本国有鉄道より)
急がれる設備投資と混雑の緩和
「国鉄は国民のみなさんから、お預かりしている鉄道ですから、国鉄はその運営をいかに合理化するかに腐心(原文ママ)しています。値上がりする石炭費も、節約によって捻出するよう、懸命の努力を傾けているのです。」 以上は、当時の国鉄が理解を求めた説明書きである。
戦前期の1936(昭和11)年と戦後期の1951(昭和26)年との鉄道経費の比較では、人件費が前者45%に対し後者38%、同様に物件費(設備費)が36%に対し50%と逆転している。それだけ、設備投資に注力していたということへの現れなのだろうか。当時の資料によると、山手線が一番混雑したのは1946(昭和21)年で、次いで中央線が昭和22年、京浜東北線は昭和24年を示している。戦禍により荒れ果てた都市部から、人々が郊外へと移り住んだことが伺える。
乗客数も電車列車を例に見ると、車両総数(輸送量170万人)の倍を上回る乗客数(350万人)へと伸び続け、1951(昭和26)年にみる総乗客数(客車・電車の乗客)では、東海道線が1600万人、次いで山手線の1300万人、中央線は1200万人という状況だった。この混雑を緩和するために、輸送力の増強を第一に考えた国鉄は、車両の増強、ホームと折返し線の延長、ホームでの相互発着、複々線の延長を推し進めた。

1953(昭和28)年当時の東京駅午前8時55分の列車と電車の動きを示した図。当時は、新幹線や地下ホームはなく、地上にある5つのホームしかなかった=資料所蔵筆者(当時のパンフレット「混雑から快適へ」日本国有鉄道より)
国家の大動脈、産業の心臓、補強し活動させましょう
「美しいホーム、すばらしい客車、そして美しい旅。国鉄の線路も駅も車両も、すべて国民の財産です。輸送力増強のために絶対に必要な方法、こうした対策の実施にいたる費用は、みなさんの快適な旅と通勤とに必要なのです。」 国鉄は、国庫からの資金調達が可能となるよう、国民一人ひとりに理解を求めた。
当時こうした国庫の貸し出しは、海運、電力、電気通信といった分野に特化していたため、国鉄もその資金調達ができれば「混雑緩和の問題は解消する」と説いたものだった。加えて、日本国有鉄道の資産は、少なくとも1兆80億円(当時)と推定されており、国鉄が民営企業であるならば「数千億円の借り入れは健全経営に何ら不安をもたらすものではありません」、とも説いてみせた。ではなぜ、国鉄の経営は破綻したのか。こうした話におよぶと、”我田引鉄”のはなしに行き着くというもの。
”我田引水”ならぬ「我田引鉄」というコトバも、聞かなくなって久しい。昭和の時代、政治選挙のたびに地域への鉄道建設と引換に、その地域の「票」を獲得しようした政治工作を意味するコトバだ。国鉄の予算は国会の承認を得なければならなかった。そこで、新線建設を”内閣主導で”行うことができる「日本鉄道建設公団(→現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)」を発足させ、新線建設を国鉄から切り離した。鉄道公団によって建設された路線は、完成後は「国鉄に譲渡できる」という、いわばザル法だった。
「山間僻地(原文ママ)に数キロの鉄道を建設するのも、地方開発に望ましいですが、まず車両を新造して、この大混雑を緩和することが何よりも急務です。汽車も電車も、これ以上の酷使には堪えられません。」当時の国鉄の考え方はこうだった。それがいつしか、路線拡大へと舵を切るようになり、経営成績は1兆3778億円の損失を計上するようになり、国鉄は膨大な赤字を抱える組織へと転落した。1980(昭和55)年には、国鉄再建法が施行され、1987(昭和62)年の「国鉄分割民営化」によって、国鉄は解体された。

1950年代の東海道線有楽町駅付近を走る電車=資料所蔵筆者(当時のパンフレット「混雑から快適へ」日本国有鉄道より)
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。
