脳を健康に保ちたいなら「整理」をやめなさい…脳科学者が語る「日常生活で気にかけたほうがいいこと」
昔の写真アルバムを取り出して眺めていると、当時の記憶がよみがえってくることがあります。撮った順番や年代を、つい頭の中で整理しようとしてしまう人もいるでしょう。
ただ、脳を刺激したいなら、その「整理」は手放してしまったほうがいいかもしれません。脳科学者のリチャード・レスタック氏は、記憶を時系列に縛らず自由に組み合わせることが、いくつになっても脳をよくする鍵だと説きます。
レスタック氏の著書『いくつになっても頭はよくなる』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成してお届けします。
時系列を無視してみる
ある年のクリスマスに、兄のクリストファーが手作りのカレンダーをくれました。それは、わたしの人生の出来事をモンタージュにしたものでした。モンタージュとは、さまざまな画像を組み合わせて統一感のある作品にすることです。1月には12歳のときの写真があり、少年のわたしがアトランティック・シティの遊歩道で父、祖父と一緒に立っています。
その右には、25年後の妹の結婚式の写真があります。そしてその横にあるのは、6歳の妹と10歳のわたしがソファにすわっている写真です。こうして並べてみると、人生で離れた時期の写真たちが、時系列を無視して統一されたものになっています。今このときも、わたしはこれらを同時に思い浮かべることができます。アトランティック・シティでの写真、妹の結婚式、そしてソファにすわっている子どもの頃の妹とわたし。
もう一つの例を挙げましょう。最近、わたしは妻とともに、娘のアンのさまざまな時期に撮った写真を整理しました。大学の卒業アルバムに載せる写真を選ぶためです。そこで、兄がくれたカレンダーにならって、モンタージュをつくることにしました。幼い頃から先月のクリスマス休暇まで、いろんな写真の中から選んでいると、ハートフォードにあるトリニティ大学4年生のアンと、保育園に通う3歳のアンが同時に存在しているように感じました。
アンにとっては、すべて日付順にしたほうがわかりやすかったかもしれません。アンはその順番で経験したのですから。しかし、わたしと妻には違う見方ができるのです。わたしたちはアンの誕生の瞬間から、数時間前の電話でのやりとりまで、彼女の人生のあらゆる時期の出来事を覚えています。そのすべての出来事が同じようにリアルで、今起こっているように思えるのです。
じつはモンタージュは、脳が記憶を扱う手法と同じです。約1.36キログラムの組織の中に、さまざまな出来事が、直線的でも時系列でもないパターンで存在しているのです。実際、わたしが脳について、すなわち、つながりと節点と交流の巨大なネットワークについて学びはじめたとき、人生のすべてが継ぎ目のない1つのものに思えるようになりました。つまり、脳について学ぶことで、この世界での体験について学べるわけです。
ただ残念なことに、わたしたちは幼い頃から、人生の各側面を整理された区画にきちんと分類するよう教えられます。その区画は地図に描いた国々のようなものです。忘れられがちですが、国を分ける国境線は、政治的あるいは歴史的な理由によって人間が引いたものにすぎません。いくら地図上で国境を定めて色分けしても、土地は継ぎ目のない1つのもので、国々は混ざりあっています。地図は土地ではないのです。にもかかわらず、頑固な想像の中にしか存在しない人工的な境界を捨てるには、かなりの努力が必要です。
同様に、時間は過去、現在、未来でできた1つのもので、モンタージュのように互いに混ざりあっています。過去が現在や未来に影響するだけでなく、未来が(定義によれば、まだ存在しないのですが)現在に大きな影響を及ぼすこともあるのです。たとえば、将来早死にするか障害が生じるかもしれないと言われたら、今の運動不足を今日にも改め、長生きできる健康的な未来を目指そうと思うはずです。前から気になっていたハイキングクラブにようやく参加するかもしれません。
ですから、脳をもっともよく機能させたいなら、すべてを時系列に考えようとするのをやめましょう。人生のさまざまな時期の出来事を記憶の中で共存させてください。イマヌエル・カントをはじめとする哲学者たちが述べているように、時間、場所、時系列はもともと脳がつくりだしたものにすぎません。つまり、合理的順序はただの錯覚ですから、あらゆるものがそれに一致すべきという考えを捨てましょう。
偶然を大切にする
とりわけ、偶然起こることにつねに注意を払ってください。深い意味が隠された啓示というわけではなく(本当にそういう場合もあるかもしれませんが)、今このときを豊かにしてくれるものとして偶然を大切にしてほしいのです。
たとえば、わたしの友人は最近、夫を亡くした悲しみからほんの少しでも気を紛らわすために、古書のブックフェアに行きました。そこでしばらく目を通したのが、アメリカの心理学者ティモシー・リアリーの『チベットの死者の書─サイケデリック・バージョン』(八幡書店)という稀覯本(きこうぼん)でした。彼女によれば、「まさに偶然に出合った」そうですが、その本は夫の愛読書の一つだったのです。
翌日、カリフォルニア州ラグーナ・ビーチにいる知人と電話で話していると、家を買うつもりだと聞かされました。それは、有名な作家でもある思想家が以前住んでいた家だそうです。「誰だと思う?」と尋ねられた彼女は、「もちろん、ティモシー・リアリーよね」と、ためらわずに答えました。
その瞬間、彼女はありありと、すべてが1つになった感覚を体験したのです。前日のブックフェア、リアリーの本との予期せぬ出合い、この悲しみ、そしてとくに大事なのは、こうした偶然が起こるのは、夫がまだ自分の人生の一部だからだという彼女の思いです。2人は永遠につながりあえると感じたのでした。
偶然の出会いを探す作家の必然
彼女からその話を聞いたとき、わたしはアイルランドの作家ジェームズ・ジョイスのことを思い出しました。ジョイスは、インスピレーションを求めて図書館に入ると、当てもなくぶらぶら歩きまわりながら、そのとき書こうとしているテーマに関する本に偶然出合えることを心から期待したそうです。彼はこの一見でたらめな方法を心底信じていました。こういうところが、彼の非常に緻密で整然とした書き方を陰で支えているのだと思います。
もちろん、この方法がうまくいく理由を説明しようと思えば、いくつかの解釈ができるでしょう。たとえば、ジョイス(とわたしの友人)は、何らかの見えざる力によって関係のある本に導かれたのではないでしょうか? そういう可能性もあるかもしれません。しかしこのような「説明」では、不思議な力による奇妙な出来事というだけで、証明すらできません。ジョイスに関しては、もっとシンプルな説明のほうがいいでしょう。つまり、ジョイスは出合ったものを何でも取り入れて文学という形にしたのです。
【後編を読む】『神経伝達物質と受容体は何歳でも変化する…「たくさん学びましょう」と脳科学者が訴える理由』
