戦後も「敵搭乗員の驚いた顔」を夢に見続けた零戦搭乗員が、戦後に明かした「敗戦の最大の理由」【太平洋戦争】
太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍戦闘機搭乗員の「戦後」をシリーズで振り返る。海軍の戦闘機搭乗員は、戦後50年の平成7(1995)年に1100名が存命だったのが、それから30年が経った令和7(2025)年10月現在、数名の存命が確認できるに過ぎない。
最前線に投入された戦闘機搭乗員の8割が戦没した苛烈な戦争を生き延びた彼らは、どのような戦後を過ごしたのか。今回は、硫黄島上空の戦いから終戦まで、戦闘機隊を率いた岩下邦雄大尉を紹介する。
前編記事『太平洋戦争の緒戦で連合軍機を圧倒した零戦は、なぜ悲惨な運命をたどったのか…戦闘機隊を率いた大尉が語る「日本人の本質」』より続く。
戦後は飛行機には乗らず
岩下はその後、他の士官たちとともに築地の料亭、次いで築地にあった海軍経理学校に潜伏して占領軍の動向をうかがっていたが、8月中には北鎌倉の自宅に帰った。そして昭和20年12月1日、アメリカの戦略爆撃調査団の窓口としてできた「史実調査部」に勤めたのち、昭和22(1947)年、知人に誘われて野原物産という化学肥料を扱う会社に就職した。
ところがその会社が昭和29(1954)年に倒産、岩下が中心になって新会社を設立して事業を引き継ぐことになり、野原産業株式会社を設立。岩下は専務に就任した。
ちょうどその頃、前述のように三菱重工のテストパイロットにスカウトされ、また発足直後の航空自衛隊からも勧誘を受けたが、事業の立ち上がりの大切な時期に社員を見捨てて出ていくことはできず、断ってしまう。
以来、野原産業は、おもに養殖魚の飼料のディーラーとして三井、三菱といった大資本に伍して劣らない業績をあげ、成長を続けた。飼料は魚粉がおもな材料になるため、いわゆる200カイリ問題や漁獲量の急激な変化など、いくつものピンチに直面したが、その都度なんとか乗り切ることができた。
敗戦の最大の原因
岩下は昭和46(1971)年に社長に就任し、その後会長、ふたたび社長を経て、平成7年、私が出会った頃には相談役になっていた。岩下は言う。
「海軍兵学校に入ってから終戦までのネイビーでの7年間というのは、戦後の人生とは違う、なにか自分のなかで輝いているような感じはしますね。『暗』の時代を潜り抜けて、なおかつ輝いているものがある。会社の仕事に関しても誇りをもっていますが、それとはちょっと違う。大切にしたい、宝のような時間だったと思います。そんなふうに思えるのは、帝国海軍にもどこかいいところがあったんじゃないでしょうか。
しかしそんなネイビーですが、反省すべき点はたくさんあります。
日本人は『死を鴻毛の軽きに』とか『潔く散る』などと、とかく命を軽く考える教育を受けてきました。戦争末期には、飛行機で爆弾もろとも体当たりする特攻までが行われました。
これに対して、アメリカは正反対でした。硫黄島の戦いで、昭和19年7月4日、最後の空戦が終わって休息に入ったときでした。擂鉢山のすぐ近くの海面に、敵潜水艦がぽっかりと浮上しました。落下傘降下した米軍パイロットを救助するために、勇敢にも敵陣間近に堂々と姿を現したわけです。
そして激しい艦砲射撃が終わると、こんどは敵の双発飛行艇が飛んできた。この飛行艇はわが隊の松場秋夫少尉の零戦に撃墜されましたが、人命救助のためには危険を顧みない米軍のやり方には驚かされました。
戦争という極限の場面では、とことんまで生き延びようという、粘り強い強靭な意志が必要です。同時に、人命を尊重するといういちばん大切なことがなおざりにされたことに、敗戦の最大の原因があるように思えてなりません。
やっぱり、民族の違いだと思いますけどね。農耕民族と狩猟民族。日本人は本来、狩猟民族相手に戦争ができるような民族じゃない。小さな虫でもむやみに殺せば罰が当たると子供の頃から教えられるのが日本人。その国民性として協同、協調、寛容、淡泊、といったことが挙げられると思いますが、彼ら狩猟民族は自己主張が強くて粘り強く、勇敢でしょう。もちろんそれが全てではないし、ほかの要因もたくさんあるんでしょうが」
硫黄島上空で敵機を撃墜したときの気持ちはどんなでしたか?
岩下は、平成9(1997)年より元海軍戦闘機搭乗員で組織された「零戦搭乗員会」の代表世話人(会長)をつとめ、14(2002)年、同会が会員の高齢化により事務局機能の継続が困難になったことから戦後世代が事務局を担う「零戦の会」に改組されたときにも引き続き会長を務めている。零戦の会は平成21(2009)年、特定非営利活動法人として東京都に認可されるが岩下は23(2011)年、90歳になったのを機に後継の会長に私を指名し、名誉会長に退くまで、戦闘機のみならず生き残り海軍士官の「顔」であり続けた。
その間、横須賀に戦時中の姿のまま営業していた旧海軍料亭「小松」で、それぞれ約30人の戦後世代を前に戦争体験を語っている。
平成21年5月31日、小松で行われた「岩下邦雄氏を囲む会」で、出席者のうちの一人から、
「硫黄島上空で敵機を撃墜したときの気持ちはどんなでしたか? やっぱり『やった!』という感じでしょうか」
と問われ、
「冗談じゃない。人の命を奪ったんだ、私の撃った機銃弾で。振り返った敵搭乗員の驚いた顔を夢にまで見ますよ。墜とした相手にも国で待っている家族がいる。『やった』なんて、手放しで喜べるもんじゃない」
と、めずらしく語気を荒げたのを憶えている。平成25(2013)年6月歿、享年92。戦後世代にも多くのことを伝え続けた生涯だった。
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