中国初の統一王朝として知られる秦は、なぜ始皇帝の死後3年で滅びたのか。背景には始皇帝と長男・扶蘇(ふそ)の確執や、宦官とされる人物の存在があった。中国文学者で明治大学教授の加藤徹さんが書いた『後宮 殷から唐・五代十国まで』(角川新書)から、秦滅亡の顛末を紹介する――。(第2回)

※本稿は、加藤徹『後宮 殷から唐・五代十国まで』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■後継者に恵まれなかった始皇帝

規模は大きかったが、始皇帝の後宮は制度的に未熟な点もあったようだ。

秦の始皇帝(写真=『The first emperor:China's Terracotta Army』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

始皇帝の正妻たる「皇后」についての記録が残っていない。名前が不明なだけではなく、そもそも始皇帝に正妻が存在したのかどうか、従来の「王后」を格上げした「皇后」という地位を設けたのかどうかも、わからない。秦末の動乱で記録が失われた可能性もあるが、理由はともあれ、始皇帝の後宮には歴史に名を残す傑物はいなかったらしい。

30人余りも子供を作った割には、後継者も貧弱である。

始皇帝の長男・扶蘇は頭も人柄も良かった。始皇帝も群臣も、扶蘇が二世皇帝となれば秦帝国は安泰であると考えていた。しかし扶蘇は、父親と衝突した。始皇帝が「焚書坑儒」のような専制的政治を行うことを、堂々と諫めたのである。『平家物語』で、平清盛の長男であった平重盛が、父の強権政治を堂々と諫めたのと似ている。始皇帝は激怒した。扶蘇は、北の辺境で異民族の匈奴に対峙している蒙恬(もうてん)将軍の監督役を命じられた。

紀元前210年、始皇帝は地方巡幸中、沙丘(現在の河北省広宗県)の地で病死した。満年齢で49歳だった。

史書の記述によると、始皇帝は死の直前、扶蘇を都に戻し、自分の葬儀を行うように遺言した。つまり、始皇帝は扶蘇を許し、自分の後継者に指名したのである。

当時、天下には始皇帝の専制的統治に対する不満がくすぶっていた。そこで、武田信玄が遠征途上で死んだときにその死が秘匿されたように、始皇帝の死も、遺体を載せた馬車が都に戻るまでは秘せられたのだ。

このとき、「沙丘の変」と呼ばれる陰謀が起きる。

■暗愚な二世皇帝を傀儡に

始皇帝の死の床につき従ったのは、始皇帝の末子の胡亥(こがい)、丞相の李斯(りし)、中車府令の趙高(ちょうこう)だけだった。

胡亥は、父にも兄にも似ず暗愚だった。李斯は、総理大臣にあたる丞相であり、趙高は宦官で、皇帝の車駕(皇帝が外出するときの馬車)をつかさどる役職の中車府令だった。

もし、聡明な扶蘇が二世皇帝になれば、自分たちの出る幕はなくなる。そう考えた胡亥と趙高は、李斯を抱き込み、始皇帝の遺詔を捏造した。その内容は、後継者を胡亥とし、扶蘇と蒙恬には「賜死」(死を賜う)、すなわち自決を命ずるものだった。

扶蘇は死に、胡亥が二世皇帝となった。趙高は暗愚な二世皇帝をあやつり、絶大な権力をふるうようになる。李斯は冤罪を着せられて「腰斬」(生きたまま胴体を切断される酷刑)のうえ一族を皆殺しにされた。趙高は李斯を倒したあと、自分が丞相となった。

右の「沙丘の変」の遺詔捏造の話は有名だが、よく考えると疑わしい。胡亥と趙高と李斯の三人の密室での謀議を、誰が見て後世に伝えたのか。史書を見ると、死刑が決まった李斯がやけになって真相を明かしたわけでもないし、胡亥や趙高が李斯の口を封じようとした形跡もない。司馬遷の『史記』をはじめ、中国の史書はノンフィクション小説的な性格が強く、説話的な物語の全てが歴史事実とは限らない。

■群雄が並び立ち相次ぐ騒乱

始皇帝の死の翌年、前209年に、陳勝呉広の乱が起きた。その後、各地で、項羽や劉邦などの群雄が次々と秦に反逆した。

即位後も中国各地をめぐった始皇帝と違い、二世皇帝は後宮に引きこもり、酒色にふけった。政治の実権は、趙高が一手に握り、地方の反乱に関する情報も趙高が適当に操作し、皇帝に伝わらない。

前207年、各地の反乱で秦は滅亡寸前となり、首都・咸陽(かんよう)の周辺地域のみとなる。項羽の配下であった劉邦(後の前漢の初代皇帝)の反乱軍が、近郊まで進攻してきた。もはや首都陥落は、時間の問題だった。

のちに前漢の初代皇帝になる劉邦(写真=『聖君賢臣全身像冊』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

『史記』秦始皇本紀の「鹿を指して馬と為す」故事は、趙高の横暴をあらわす挿話である。

秦帝国の末、二世皇帝の人望は地に落ちた。趙高はクーデターを起こし、胡亥の兄の子で人望がある子嬰(しえい)(始皇帝の弟説、胡亥の兄説もある)を三世皇帝として、あやつろうとたくらんだ。乱を起こす前、群臣が自分にどこまで服従するか、試すことにした。

■「馬鹿」の語源となった逸話

趙高は、二世皇帝に鹿を献上して「馬でございます」と言った。二世皇帝は笑って、身近な群臣に向かい「丞相は間違っているんじゃないのか。鹿を馬だと言うとは」。群臣の態度は分かれた。沈黙を守る者、「馬でございます」と言って趙高におもねる者。「鹿です」と正論を言う者。趙高は、じっと反応を見た。そして、「鹿です」と言った臣下を法の網にかけて罰した。群臣は趙高を恐れた。

一説に、日本語でバカという言葉に「馬鹿」という漢字を当てるのは、「鹿を指して馬と為す」故事にもとづくものとされる。

趙高は娘婿らとともに「望夷宮の変」を起こし、二世皇帝を殺した。当時、秦の領土は大幅に縮小して王国レベルに逆戻りしていたので、趙高は子嬰を三世皇帝ではなく、秦王として擁立したが、聡明な子嬰は趙高のたくらみに乗らず、逆にクーデターを起こし、趙高を殺す。

その後、子嬰は劉邦に無条件降伏し、劉邦軍は咸陽に入城した。ときに紀元前207年。始皇帝の死から、わずか3年だった。

■平家物語にも登場した“悪役”

秦の記録は曖昧で混乱している。記録が戦乱で失われ、秦の敵対勢力が流布したデマや噂が歴史的事実として残ってしまった部分もあろう。

近年発見された竹簡史料『趙正書』にある、始皇帝の死と秦滅亡の顛末の記述は、『史記』とはかなり違う。

趙高は、秦を滅ぼした奸物として、日本でも有名である。『平家物語』の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」のくだりでも「遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山」と、悪役の筆頭にあげられている。

ただ、その実像は謎が多い。趙高は、国政を握った最初の宦官とされる。しかし彼が本当に宦官であったかどうか、実は疑わしい。近年は新史料や『史記』の再解釈をふまえて「趙高非宦官説」を提唱する研究者も多い。例えば、就実大学の李開元教授も、趙高は去勢されておらず、法の知識を買われて抜擢され、中車府令をつとめるなど文武両道の人物だった、と再評価している。

仮に旧来の言説のとおり趙高が宦官だったとしても、その経歴は後世の宦官のイメージとは違う。

■秦を滅ぼした悪名高い宦官の真相

中国史で悪名をとどろかせた宦官は、明の時代の劉瑾(りゅうきん)も清末の李蓮英(りれんえい)も、下層階級の出身で、無学な無頼の徒だった。皇帝や后妃の身の回りの世話をする雑役係として後宮に入り、口八丁手八丁でのしあがったのである。

西太后の腹心だった宦官の李蓮英(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

趙高の経歴は違う。彼の出世の糸口は、後宮の雑役ではなく、法律の知識だった。

加藤徹『後宮 殷から唐・五代十国まで』(角川新書)

『史記』蒙恬列伝によると、彼は刑余の卑賤の家の出身だった(従来の解釈「兄弟数人はみな宦官の家に生まれた」に対して、近年「兄弟数人はみな刑余の家に生まれた」という新しい読解が提唱されている)。秦王時代の若き日の始皇帝は、趙高が刑法に通暁していることを聞き、中車府令に抜擢したという。

趙高が仮に去勢されたとしても、彼に娘婿がいたことを考えれば、成人後、罪をあがなうための刑罰として去勢されたのであろう。『史記』の著者・司馬遷が武帝の怒りを買い、去勢される屈辱的な刑罰である「腐刑」を受けたのと似ている。去勢された司馬遷は、罪を赦されたあと、後宮の秘書長である「中書令」に任じられた。なお、中書令や中車府令の「中」は、去勢された男性を婉曲に指す「中人」という説もある。

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加藤 徹(かとう・とおる)
明治大学法学部教授
日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事。1963(昭和38)年、東京都に生まれる。専攻は中国文化。東京大学文学部中国語中国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。90〜91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部助教授等を経て、現職。『京劇「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。
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(明治大学法学部教授 加藤 徹)