鬼木達監督のラストメッセージ。愛する川崎フロンターレへの望み、今後への願いとは【特別インタビュー】
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鬼木達、50歳。1993年のJリーグ元年に市立船橋高から鹿島に入団し、1998年に川崎へレンタル移籍。翌年は鹿島に戻り、2000年に川崎に完全移籍し、度重なる怪我により2006年に引退。その後は、川崎で指導者の道を歩んできた。
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何より貴重だったのは、勝利に徹する“鹿島のカラー”と、ピッチ外でも人々を楽しませる“川崎のカラー”をブレンドできる人物だったということだ。
「自分は鹿島でスタートしていなかったら、間違いなくあそこまで現役生活をしてこられなかったでしょうし、鹿島での勝つための努力や雰囲気を知らなかったら、監督としても勝ち方を知らなかったはずです。その意味で言うと、大きかったのはジーコさんの存在。プロとはこうあるべきだと教えてもらいました。鹿島で自分はなかなか試合に出られませんでしたが、それこそ(鈴木)満さん(長年鹿島の強化のトップを担い、現在はフットボールアドバイザー)もサテライトの監督をしていて、クラブに関わる人たちの熱量を含めて勉強になることばかりでした。
当時、Jリーグが始まったばかりで、正直言うと、むしろ僕みたいな新人にもチャンスがあるんじゃないかと思っていたんです。でもそんな淡い期待はすぐ打ち砕かれて(苦笑)。でも、やっぱり鹿島でプロとはなんぞやと学べたのは大きかったですね。
だから川崎で17年に初優勝した際にも『この雰囲気を覚えていてくれ』と話したんです。試合に出ている、出ていない関係なく、この時はこうだった、こうしたから勝てたと記憶に残っていれば、今後に活きる。なぜ勝てて、なぜ勝てないのか、そこですよね。当時の鹿島は結構押されていても、戦っていた選手たちは『余裕があった』と。ここを抑えておけば、やられないというような、記憶がそういう余裕につながるんですよね。
一方で(当時はJ2生活も長かった)川崎に来て、驚くことも多かったですし、鹿島と同じことをやっても絶対に勝てないなとも感じました。川崎では個々が特長を出せるようにと言いますか、そこはヤヒさん(風間八宏前監督)の影響も相当に強いんですが、様々な意味で魅せて勝つ。だからすべて鹿島ではないし、すべて川崎ではない。優勝の経験をちょっとずつ入れながら、だけど、フロンターレの色は消さないように歩んできました」
では、クラブと酸いも甘いもともにしてきた鬼木監督にとって、今後、川崎に期待したい点とは、どんなことなのか。
今年の春先、指揮官はクラブの新入社員研修で「監督、選手はいつかはいなくなるもの。クラブを支えるあなたたちこそが大事なんです」と呼びかけていた。
「僕もそうですし、選手もそうですがクラブに関われる時間って限られているわけですよね。だからこそ、その期間で最善を尽くし、最高のパフォーマンスを見せなくてはいけない。選手だろうが、監督だろうが、コーチだろうが、みんなそれを求められています。そのクラブに何を残せるかを追求しなくてはいけない。僕らはみんなでタイトルを取ることができましたが、取れない時だって当然ありますし、そういう時だって姿勢は変えないことです。
一方で、クラブに長年残っていくのは事業部の人であったり、サポーターの方らですよね。要はフロンターレを愛し続ける人たちは、クラブをずっと支えてくれるわけで、サポーターの方々は、勝っている時だろうが負けている時だろうが、フロンターレを愛し、フロンターレをどうにかしたいという気持ちで関わり続けてくれている。
だからこそ、人生の一部として週末をフロンターレとともに過ごす人たちが、どういう想いでこのクラブを支え、また育てていきたいのか、そこを知ることが重要であり、そういう人たちを見る目が大事だと思うんです。
そしてクラブスタッフの人たちはフロンターレにとって財産です。どれだけチームのことを好きであっても、中で働いている人たちの環境を良くしていかなければ、クラブ愛は保てません。そしてサポーターの方々ともしっかりコミュニケーションを取る。そうやってクラブは発展していくのではないでしょうか。そこの意識は大事にしてほしいと思っています。
そして僕の願いとしては、クラブを離れる時は、願わくばみんな良い形で離れるような状況であり続けてほしい。移籍する選手やこれからいずれ引退など、様々な選択を迫られる選手もいるはずですし、様々な選択をするスタッフの人たちもいるはずですが、フロンターレとして良い形で送り出してもらいたいし、またこのクラブに戻って仕事がしたいと思われるようなクラブになって欲しいです。そこが僕の願いですね」
そして、そんな人々の想いが集まったクラブをどう方向づけていくのか。指針も大事になるに違いない。かつて、川崎の礎を築いたとも言える庄子春男前GM(現・仙台GM)と風間八宏前監督が対談した際に、風間氏はこんなことも語っていた。
「そもそもチームの方向性を決めるのは監督ではない。監督はチームの求めるものがあったうえで呼ばれるわけで。監督を連れてきて『後はお願いします』じゃどうしようもない。当時、川崎は庄子さんを先頭に指針を持ってやってきた。だから選手も多く育った。今はJリーグ全体で監督がなんとかしてくれるという風潮が強いように感じます。
監督も重要な役割ですよ。でも改めてクラブを作るのは監督ではない。クラブの方向性、指針を示してくれる方々こそ一番大事なんですよ。自分はそこに少しだけ関わらせてもらっただけ。風間はどんな辛い状況でもへこたれないなんて言われましたが、実は裏でクラブの未来へ僕のことを信じ、批判などから守ってくれていた人たちがいたんですよ」
どんなサッカーをしたいのか、どんなクラブにしたいのか。やはり大事なのは志なのだろう。そこに熱意があれば、人はついていくはずである。鬼木監督から“卒業”することになった川崎は、真の意味で腕の見せ所である。
果たして、ここから新たな指針を示せるのか。クラブに関わる人、全員が一体となって同じ方向に進めた時、川崎は真に新時代を迎え、鬼木体制で築いてきた8年の価値を見い出せるはずである。
鬼木監督が決断を母に伝えた際、こう言われたという。
「あなたが辞めても私はずっとフロンターレも応援し続けるからね」
クラブを運営とは会社経営の側面もある。ビジネス的な視点も持たなくては生き残っていけない。しかし、クラブを愛し続けている人たちがいる。命を燃やして戦う人たちがいる。そんな人たちの想いを背負うことが、何より大切なのではないか。チームを強くするにはかなりの労力と時間と情熱が必要だ。しかし崩れるのは一瞬である。だからこそ、火を決して絶やしてはいけない。高い志で挑戦し続けなくてはいけない。
それこそ、鬼木監督のラストメッセージは多くの人が心に刻むべきだろう。
(第4回に続く)
取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)
■プロフィール
おにき・とおる/74年4月20日生まれ、千葉県出身。現役時代は鹿島や川崎でボランチとして活躍。17年に川崎の監督に就任すると悲願のリーグ制覇を達成。その後も数々のタイトルをもたらした。“オニさん”の愛称で親しまれ、今季限りで退任。
