「乳がん発見のきっかけは“友人のお土産”でした」大バズリ女優・赤間麻里子54歳、闘病体験を語る
SNS総再生回数15億回を誇る、映像制作ユニット「こねこフィルム」によるショートドラマ。その中でも特に注目を浴びている『年齢確認VSプライド』(シリーズ2億回再生)にマダム役で出演しているのが、俳優の赤間麻里子さん。作品の中で見せた「17歳」の演技があまりにもリアルで可愛らしいと話題を呼んでいます。
今回女子SPA!では赤間さんにインタビューを実施。俳優を目指したきっかけや影響を受けた人物、さらに今後の野望について聞かせてもらいました。
◆映画好きな母の影響で、映画俳優に憧れを抱く
――俳優を志すようになったきっかけを教えてもらえますか?
「もともと母が映画好きだったので、一緒に見させられていたんです。いつも横で『グレース・ケリーのドレスが……』『ヒッチコックの演出が……』とか、講釈を聞かされているうちに銀幕のスターに憧れを抱くようになりました」(赤間麻里子さん、以下「」内同)
――最初は映画俳優の道を目指したのですね。
「でも『ウエストサイドストーリー』を見てミュージカルってカッコいい! の方向になりまして。ミュージカル科のある学校に進学し、ニューヨークに行って歌とダンスを習って、本格的に勉強していたんですよ。ただ、これは私の中での感覚なのですが、当時の日本のミュージカルはお芝居に入るとトーンダウンする印象があって、まずは芝居を学ばなければ始まらないと考え、ミュージカル科を中退し、仲代達矢さんが主宰する無名塾に入門したんです」
◆俳優を辞めて、子育てに専念した「その後」
――あの“演劇界の東大”と言われる無名塾の出身だったのですね! どれくらい在籍していたのですか?
「毎日通っていたのは塾生の3年間でしたが、籍は10年置いていました。初めて出会ったプロの俳優が仲代さんだっただけに、自分自身がここまで行けるのか不安はずっとあったんです。結婚を機に無名塾を辞めて、その後はフリーで舞台をメインに活動していました」
――子育ての最中も俳優の仕事は続けていたのですか?
「ゼロではありませんでしたけど、ハッキリ言って売れてはいませんでしたね。結局、一旦は辞めて子育てに専念することにしました。子育てをやり切った後に演技への想いを忘れてしまっていたら、それまでかな、と。才能がなかったということだと思うことにしたんです」
◆20年前の、19歳だったときの自分に“後押し”されて
――でも結果、今でも続けているということは。
「そこは才能云々の話ではないですね。39歳の時に、段ボールいっぱいに入っていた無名塾時代のダメ出し帳を発見したんです。入塾初日に書いた1ページ目には、『40歳になって何者にもなれなかったら潔く諦めること』って書いてありました。おそらく19歳だった当時の私にとって、40歳が違う人生をギリギリ始められる年だと思ってたんでしょうね」
――発見したのが39歳ということは……あと1年! そこで何か行動を起こしたのですか?
「今、誰と仕事をしてみたいのかを考えて思い浮かんだのが、原田眞人監督と井筒和幸監督でした。だからまずは、この二人にアプローチしてみよう、と」
◆「若い俳優志望の子たちばかりの中、ダントツで年上」
――2人とも映画界の大物監督!
「狙うなら大御所を狙っちゃおう。ダメもとなんだから目標は高く! くらいのノリでした。どうせ簡単には近づけないだろうし(笑)。でも、そのタイミングで原田監督がワークショップを行うと知ったんです。原田監督作品のどんなところが好きか、自分の思いを何枚もの手紙にしてワークショップの最終日に手渡しました。その後、映画の研究会やオーディションに呼んでくださるようになったんです」
今回女子SPA!では赤間さんにインタビューを実施。俳優を目指したきっかけや影響を受けた人物、さらに今後の野望について聞かせてもらいました。
◆映画好きな母の影響で、映画俳優に憧れを抱く
「もともと母が映画好きだったので、一緒に見させられていたんです。いつも横で『グレース・ケリーのドレスが……』『ヒッチコックの演出が……』とか、講釈を聞かされているうちに銀幕のスターに憧れを抱くようになりました」(赤間麻里子さん、以下「」内同)
――最初は映画俳優の道を目指したのですね。
「でも『ウエストサイドストーリー』を見てミュージカルってカッコいい! の方向になりまして。ミュージカル科のある学校に進学し、ニューヨークに行って歌とダンスを習って、本格的に勉強していたんですよ。ただ、これは私の中での感覚なのですが、当時の日本のミュージカルはお芝居に入るとトーンダウンする印象があって、まずは芝居を学ばなければ始まらないと考え、ミュージカル科を中退し、仲代達矢さんが主宰する無名塾に入門したんです」
◆俳優を辞めて、子育てに専念した「その後」
――あの“演劇界の東大”と言われる無名塾の出身だったのですね! どれくらい在籍していたのですか?
「毎日通っていたのは塾生の3年間でしたが、籍は10年置いていました。初めて出会ったプロの俳優が仲代さんだっただけに、自分自身がここまで行けるのか不安はずっとあったんです。結婚を機に無名塾を辞めて、その後はフリーで舞台をメインに活動していました」
――子育ての最中も俳優の仕事は続けていたのですか?
「ゼロではありませんでしたけど、ハッキリ言って売れてはいませんでしたね。結局、一旦は辞めて子育てに専念することにしました。子育てをやり切った後に演技への想いを忘れてしまっていたら、それまでかな、と。才能がなかったということだと思うことにしたんです」
◆20年前の、19歳だったときの自分に“後押し”されて
――でも結果、今でも続けているということは。
「そこは才能云々の話ではないですね。39歳の時に、段ボールいっぱいに入っていた無名塾時代のダメ出し帳を発見したんです。入塾初日に書いた1ページ目には、『40歳になって何者にもなれなかったら潔く諦めること』って書いてありました。おそらく19歳だった当時の私にとって、40歳が違う人生をギリギリ始められる年だと思ってたんでしょうね」
――発見したのが39歳ということは……あと1年! そこで何か行動を起こしたのですか?
「今、誰と仕事をしてみたいのかを考えて思い浮かんだのが、原田眞人監督と井筒和幸監督でした。だからまずは、この二人にアプローチしてみよう、と」
◆「若い俳優志望の子たちばかりの中、ダントツで年上」
――2人とも映画界の大物監督!
「狙うなら大御所を狙っちゃおう。ダメもとなんだから目標は高く! くらいのノリでした。どうせ簡単には近づけないだろうし(笑)。でも、そのタイミングで原田監督がワークショップを行うと知ったんです。原田監督作品のどんなところが好きか、自分の思いを何枚もの手紙にしてワークショップの最終日に手渡しました。その後、映画の研究会やオーディションに呼んでくださるようになったんです」