電車の中まで追いかけて来る「TV」、一体誰が喜ぶ?【道越一郎のカットエッジ】
嫌なら見なければいい、と言われればそれまでだが、短時間とはいえ、ある種軟禁状態にある電車の中。どうしても動くものに目が行ってしまう。それより、ドアの窓に貼られた奇抜なコスプレでおなじみの大学受験予備校「みすず学苑」の「ドアステッカー」のほうが1000倍面白かった。よくよく見ると、モデルは、やはりお笑い芸人の椿鬼奴だ。しかし、ステッカーぐらいならまだ許せる。ちょっと褒めすぎかもしれないが、微妙にうっすら笑っている、モナ・リザのようなアルカイックスマイルがなんとも絶妙。コスプレもよく似合っている。
駅貼りポスターのコピーは「電車の中のテレビ局、はじまる。」。シンプルなデザインと印象的な女性の顔が目を引く。とはいえ「〇〇、はじまる」というコピーだったり、女性の顔の正面からのドアップだったり、黒地に白文字のみというデザインだったり、どれも、べったりと手アカのついた表現手法。「TV」という終わりかけの媒体の姿に通じるものも感じられる。車内で動画を放映する仕組みはかなり前からある。以前は「トレインチャンネル」と称していた。これでは訴求力が弱かったのかもしれない。しかし、このご時世、なぜ電車の中で「TV」なのか。いったい誰が電車の中で、いわゆる「TVクオリティ」の番組を求めているのだろうか。
日本のテレビをダメにしたのは「お笑い芸人」だと思っている。正確には、お笑い芸人自身ではなく、彼らを安易に起用し続けたテレビ局に責任がある。まだテレビに権威があったころ、お笑い芸人は一部のバラエティー番組に出ているくらいで、今のようにありとあらゆる番組に露出し続けるような存在ではなかった。しかし、この10年、あるいは20年ぐらい前からだろうか、ありとあらゆる番組に、もれなくお笑い芸人がついてくるような状態になってきた。彼らは話術に長け、視聴者の空気が読め、番組構成のちょっとした変化にも臨機応変に対応でき、生放送への耐性も強い。さらに、ちょっと名の売れた文化人と違い、制作側に小難しい要求をすることもない。あちこちのテレビ局で重宝されてきた所以だ。
私も最初は喜んで見ていた。もともとお笑いは好きだった。ある漫才コンビに至っては、発売されたビデオやDVDはすべて買い、ネタを覚えるほど何度も繰り返し見ていた。テレビで彼らのお笑いがみられるのはありがたかったし、お笑いをせずとも、番組の司会として登場する彼らの姿を見るのも楽しかった。しかしこのところ、歳のせいかもしれないが、テレビに登場するお笑い芸人全般に拒否反応が出るようになってきた。「食傷気味」という言葉があるが、それを通り越して食あたりを起こしているような状態だ。いくらお笑いが好きでも、これだけ激しく露出し続けていれば、それは飽きるというもの。話の内容も薄く、いつまでたっても同じことの繰り返し。テレビ番組離れが起きて当然だ。
テレビを見ているのは高齢者だけ、という話はよく聞く。しかしその高齢者すら怪しくなってきた。高齢者に片足を突っ込んでいる自分もさることながら、周りの高齢層も、徐々にテレビ番組から遠ざかっているように見える。ある地方都市でのこと。タクシーに乗ると、70代後半と思しき運転手さんが、延々と自分の好きなYouTube番組の話ばかりするのでとても驚いた。「テレビじゃなくてYouTubeなんですか?」と聞くと、「テレビはみんなおんなじで、つまんないからねー」という。テレビ番組離れは、地方都市にまで急速に進展しつつあるのかもしれない。もはや「TVクオリティ」という言葉は、質の高さを示すものではなくなった。多くの人はもう気付いている。(BCN・道越一郎)
