横浜FCで指揮を執る四方田監督。偉大な先達との出会いで多くを学んだという。写真:永島裕基

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 セレッソ大阪の小菊昭雄監督、FC町田ゼルビアの黒田剛監督など、今のJリーグにはJリーガー経験のない指揮官が何人かいるが、横浜FCの四方田修平監督もその1人だ。

 習志野高から順天堂大、筑波大の大学院を経て、Jリーグで指導者キャリアをスタートさせた彼には、自身の原型を形作った大きな出会いがいくつかあったという。

 最初に出会った偉大な指導者と言えるのは、習志野高時代の恩師・本田裕一郎監督(現・国士舘高テクニカルアドバイザー)。市原緑高時代に宮澤ミシェルや松橋力蔵、習志野高時代に玉田圭司らを育てた名将は、70代半ばになった今も現場に立ち続けている。

「本田先生は学ぶ姿勢がものすごかったし、新しいものをどんどん取り入れて、選手に提供していこうという意欲が頭抜けていましたね。

 僕が習志野にいたのは1980年代後半でしたけど、まだJリーグもない時代に、高1でアルゼンチン遠征に行かせてもらったのは、本当に画期的な出来事。僕自身も大きなインパクトを受けましたけど、その時代の最先端を選手に落とし込んでくれたことには感謝しています。

 その一方で、厳しさも人一倍あった。人間性や発言、態度などに関しては特にそうでした。自分は選手としてはそれほど才能があるわけではなかったけど、頑張れば頑張るほど認めてもらえた。それも大きかったですね。

 僕は札幌で長くユース年代を指導しましたけど、その経験は確実に生きたと思います」と、四方田監督はしみじみと語っていた。
 
 確かに札幌ユースで指揮を執っていた頃を振り返ると、西大伍(いわて)、深井一希、荒野拓馬(ともに札幌)ら個性豊かな面々が数多くいた。彼らのキャラクターや才能を認め、背中を押し、ストロングを伸ばそうという度量が指揮官にあったからこそ、プロとして活躍できた選手が多かったのだ。それは小川航基(NEC)にしても同様だと言っていい。

 四方田監督が大きな影響を受けた次なる人物は、日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三会長だろう。筑波の大学院時代、田嶋研究室に在籍した彼は小野剛・JFA技術委員会副委員長、影山雅永・同ユースダイレクターらとともに学び、サッカーへの見識を深めた。

 田嶋会長がJFAの強化にも携わっていた関係で、加茂周・岡田武史の両監督時代の日本代表のテクニカルスタッフを務めることにもなったのだ。

「田嶋さんは指導教官であるのと同時に、社会に出て初めての上司でした。『先生とはこうあるべき』という既成概念を覆した人というか、すごくフランクに接してくれて、『言うべきことは言わなきゃいけない』と同じ目線で接してくれました。仕事を離れたオフの時は、本当に家族のように大事にしてくれて、物心両面でお世話になった。僕にとっては模範となるリーダー。今、こうして現場のトップに立っていますけど、田嶋さんから学んだマネジメントがすごく役に立っています」

 まだ20代だった四方田監督が、日本代表に関わるというのは異例中の異例。現在、カタールで開催されているアジアカップで、筑波大と東京大の学生が参加して分析グループが結成されているが、当時の彼はまさに先駆者だったのだ。

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「98年フランス・ワールドカップのアジア予選の時は最初からずっとチームに関わっていて、加茂さんから岡田さんに交代することになった時も身近にいました。加茂さんからは『君は選手としての実績がないから、他の人の2倍3倍、頑張らなきゃいけない』と言われましたね。それは今も自分の大きな励みになっています。

 岡田さんとは札幌時代も含めて長く一緒に仕事をすることになりましたが、監督としての孤独さ、覚悟を決める姿を間近で見て、いろいろ感じるところはありました。ワールドカップ出場権獲得、本大会のメンバー決定など全責任を負わなければいけない厳しさも感じた。監督という仕事の大変さを痛感させられました。

 岡田さんの下で札幌のコーチになった頃は僕自身、まだまだ足りない部分が多くて、申し訳なさが強かったですけど、『しっかり支えたい』という情熱だけはあった。その気持ちだけは人一倍強かった。それで何とかやってこられたのかなと思います」

 その後、長く育成畑を歩み、32人のプロ選手を輩出。2014年にはJFA公認S級指導者ライセンスを受講。2015年夏に認定された直後に、札幌でイヴィッツァ・バルバリッチ監督の後任としてトップチームの監督に就任。Jリーグの舞台で勝負する道を歩み出したのだ。

「札幌ユースで指導していた30代の頃は、『10年後、15年後には田嶋さんや岡田さんのようなリーダーシップのあるトップになりたい』と考えていました。でも徐々に『ちょっと違うな』と感じた。やっぱり自分は自分だなって思い始めたんです。

 S級を取ったのも、そんな時期。ずっと育成に携わっていたいという思いがある反面、自分が携わった選手が次々とプロになっていくのを見ながら、『自分もこの選手たちと何か一緒にやりたいな』という気持ちが強くなっていったんです。

 ただ、トップの監督にすぐなれるとは考えていなかった。当時の野々村(芳和=現Jリーグチェアマン)社長から『トップチームを何とかしてくれないか』と言われた時には正直、ビックリしましたけど、思い切って引き受け、3年間、指揮を執らせてもらった。

 選手をどうモチベーション高く取り組ませるか、一体感を持ちながら活動していくかというチームマネジメントを大事にやったつもりです。2018年にミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ)監督が来て、自分は再びコーチに戻りましたけど、札幌でトップ指導に当たった7年間の経験は、今の糧になっています」
 
 ミシャ監督も「四方田のおかげで良いチーム作りができている」とたびたび名指しで感謝したほど、四方田監督の存在は大きかった。当時の教え子である中野嘉大も「札幌で通用するかどうか確証が持てなかった自分を認めて、力を引き出してくれたのがヨモさん」と語っていたが、選手たちの支えになったのは間違いない。

 福森晃斗は「札幌2年目の2016年に開幕戦でいきなりベンチ外にされたことがあったんです。2015年に39試合出て、ちょっと有頂天になっていた部分があったのかなと。そういう気持ちに気づいたヨモさんがバッサリとやったってことでしょうけど、優しい顔して、やることは結構エグいですから」と冗談交じりに語っていた。そういった厳しさも四方田監督のストロングだろう。

 数々の恩人たちから学び、築き上げた秘蔵っ子たちも認めるマネジメント術で、2024年の横浜FCを躍進に導いてほしいものである。

※第2回終了(全3回)

取材・文●元川悦子(フリーライター)