ゴルフ・エッセイストの夏坂健さんは、ゴルフの達人であるだけではなく食通としても知られ、1983年に、古今東西の偉人たちの食に関するエピソードを集めた『美食・大食家びっくり事典』を著している。この本のカバー折り返しには、美食家で料理人としても知られた俳優・故金子信雄さんが、フランス王妃マリー・アントワネットの有名な言葉「パンがなければお菓子をお食べ」を引いて、「パンが不味ければこの本をお読み」と書いている。ローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧強記の水先案何人の手引きで、先人たちの食への情熱ぶりを綴った面白エピソード集をご堪能ください。第10回は、2人のフランス王のお話。フランス料理を世界に冠たるものにした太陽王の食へのこだわりと、ギロチンの露と消えた王の最後の食事について。

第2章 美食に命を賭けたこの人たちの食卓

一食たりとも手を抜かない美食の殉教者たちの世にもおかしい食い倒れ、飲み倒れのエピソード。

人はどこまで食べられるか。

(10)美食学の創始者=ルイ14世の真髄 

ほとんど歯がなく、しかも手で食事をする太陽王こそは、食に対する最も敬虔なる大信仰者であり、殉教者といえるだろう。

「美食学に始祖がいるとしたら、それはルイ14世ではないだろうか」

という説は正しいように思われる。

なにしろウマい料理を考案した者には惜しみなく金銀を与え、ときには爵位や領地までふる舞ったくらいだから、本職の料理人はむろんのこと、貴族の奥方、宮廷の士官、兵士の女房、だれもかれもが目の色を変えてオリジナルに取り組んだ。そのために宮殿の台所は、山のように持ち込まれる革新的料理で足の踏み場もなかったという。

すぐれた料理が次々に誕生しはじめたのは当然のことである。テリーヌ、パテ、数多くのソース、贅をこらしたデザート、ルイ十四世の人並みはずれた食欲が、百花斉放の美食時代の幕あけになったといえる。

ルイ16世の最後のメニュー

食べることにだって自分流がある。ただ一般にうけるかうけないかは全然別の問題。人の反感を買ったときはお覚悟を!!

食べることは本能である。しかし巧みに食べることは芸術である――ラ・ロシュフコゥ――

この人は最後まで徹底していた。

1793年1月21日、タンブル塔の牢獄の一室に運ばれた料理は、仔牛のカツレツ6枚、去勢鶏の半身肉のソース煮1皿、白ワイン2杯、カリカント・ワイン1杯、パン、サラダとフルーツ。

処刑の数時間前、フランス国王ルイ16世は、これだけの量を一気に食べてから皿をパンでぬぐったといわれる。

普通の男なら、カツレツ6枚に鶏の半身肉で満腹だろうが、ルイ16世に限っては少々物足りなかったと思われる。なにしろベルサイユ宮殿での絢爛豪華だった日々、国王は1日10時間ほど食卓についていた方である。この程度の量は、晩餐のオードヴルか3時のオヤツで召し上がっていたはずである。

ルイ16世は善良でまじめ、日曜大工が好きで、お人好しの2代目社長みたいな方だったが、食べることと妻のマリー・アントワネットには目がなかった。

ベルサイユ宮殿にはルイ14世から16世までが住まわれたが、初代から先代の15世まで、代がかわるたびに浪費もエスカレートしていって、16世のころにはかなりフトコロ具合が苦しくなっていた。国民のほうも長びく構造不況で、石のようなパンを水にひたして食べるような生活を強いられていた。

なにしろ美食、大食だったルイ14世の料理人が324名、ルイ16世の最盛期には386名の專用料理人がいたのだから、その経費だけでも莫大なものだったろう。しかも386名の料理人に加えて、侍従、女官から馬丁にいたるまで、約3000人の宮殿関係者を官舎に住まわせ、その妻子も食べさせていたのだから、多分国家予算の大半はベルサイユ宮殿の維持費で消えてしまったのではなかろうか。

王妃のシャンパン風呂

1789年に、飢えた民衆が宮殿に押しかけ、なかには衣服が買えずに裸のままの男女も少なくなかったというが、口々に、

「パンをくれ! ひと切れでいいからパンをくれ!」

と泣き叫んだとき、宮殿のバルコンにマリー・アントワネットが現れて、

「パンがなければお菓子をお食べ!」

と叫び返したといわれる。この瞬間にフランス革命はのっぴきならないものになってしまった。

マリー・アントワネットの浪費の最高は、やはりかの有名なシャンペン風呂につきるようである。

これは1485年に、画家サンドロ・ボッティチェリがメディチ家のために描いた名画《ヴィーナスの誕生》の、一糸まとわぬヴィーナスが立っている大きな貝をそっくり真似た浴槽を作らせて、それを黄金の台座の上にすえ、1000本の特上のシャンペンで浴槽を満たしたのである。極上の、発泡性ではない、たとえばドン・ペリニヨンあたりを1000本である。

美女マリー・アントワネットが浴槽に沈むと、大理石の貝のまわりからあふれたシャンペンを取り巻き連中がグラスで受けて、口々に彼女の美と健康を称えて乾杯、また乾杯というのだから途方もない話である。

こうした浪費に対しても、16世はニコニコしているだけだった。

やがて革命人民政府によってマリー・アントワネットも断頭台の露と消えるのだが、16世のほうが先に処刑されている。

国王は先の注文の品々を胃袋におさめると、しばらく昼寝をされた。迎えがきて、今日は特別冷え込んでいると聞いて、恐怖に青ざめていると思われては心外だからとシャツを余分に一枚所望され、牢からギロチン台へと出発した。

最後の最後までルイ16世は食事をおろそかにはできなかった食いしん坊であった。ベルサイユ宮殿の崩壊によって400人近い宮廷料理人は職を失い、生計を求めてパリを中心に料理店をはじめる者が続出した。革命がレストランの始まりになったともいえるのである。

(本文は、昭和58年4月12日刊『美食・大食家びっくり事典』からの抜粋です)

『美食・大食家びっくり事典』夏坂健(講談社)
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夏坂健

1934年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。その百科事典的ウンチクの広さと深さは通信社の特派員時代に培われたもの。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。